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家族の中で、折に付けて言われる「父様にそっくり」という言葉が、その表現が僕は好きではない。
それは事実なのだろうけれど、笑ってやり過ごすことが出来ない。そうして憮然とすれば、カガセにまた呆れるくらいそっくりだと言われる。悪循環だ。
僕は父が好きではない。昔、世間で言われていた“戦犯の子”だとか敵兵だったとかそういうことが嫌だというのではない。
父が母と結婚したのは、僕が12になる少し前だった。それまでずっと放っておいて、何を今更、と思ってしまうのだ。 僕という存在を知っていながら十年も放置して……なら、いっそ離れていてくれた方が良かった。僕にとって彼は、母を泣かせた人でしかないのだから。
ずっと小さかった頃、人気の無い暗い部屋で声も立てずに母は泣いていた。眠ってでもいるのかと思って、小さく蹲ったその背中に手を当てた。
「母様?」
驚いて振り返った母の頬に涙の跡が幾筋も付いて、尚零れ落ちる雫に、僕は目を見張った。
「どうしたの?どこかいたいの?」
母は涙を手の甲で拭って、こくり、と頷く。そして思い直したように首を振った。
「……いや、大丈夫だ」
そんな様子を放っておけずに僕は頭を上げて扉を振り返った、母が無理をしがちなのは知っていたから。
「僕、おいしゃさまをよんできます」
踏み出そうとして引かれる感触に振り返る。手を掴まれていた。
「いいんだ。これはお医者様には治せない。
……痛いのは、思い出、だから 」
僕は息を呑んだ。“思い出”という言葉が、知らない言葉のように思考に落ちずに頭の中でくるくると舞う。
「大丈夫だ。アエカがいるから、大丈夫だ」
母はそう言って僕を抱きしめた。僕はまだ小さくて、母を支えるには未だ小さ過ぎて、息をするのが精一杯で、とてももどかしい思いをしたのを憶えている。
あの人の所為だ ーー
だから、僕はあの人を未だ好きになれない。
「アエカおにいさま、おとうさまとけんかしてるの?」
心配そうにレイアが見上げている。
「いや。喧嘩なんてしてないよ。どうして?」
無邪気に首を傾げるレイアに頬が緩む。そんな僕に悲しそうな顔を向けて言った。
「だって、アエカおにいさま、おとうさまとそっくり、っていうとおこったおかおするんだもん。」
これには失笑した。確かに決まって不機嫌な顔をする。そういう自覚はある。けれど、怒った顔だと言われるとは思わなかった。
「怒った顔なんかしてないよ。ちょっと嫌だな、て思ってるだけで」
絞り出した言葉は呟いたようになった。レイアは悲しそうな顔のまま、僕を見上げていた。暫く戸惑うように口籠って問う。
「いや、なの?」
「少し、ね」
少し、て顔じゃない。それが分かっているから苦しい笑いになった。レイアもそう思っているのだろう、一瞬、変な顔をして微妙な笑顔になった。
「わたし、アエカおにいさまがおとうさまににてるの、すてきなことだとおもったのにな」
「でも僕はあの人のこと、好きじゃないから」
ぽつりと落とした言葉にレイアが目を瞠った。これ以上ないくらい見開いて驚愕を表す。薄らと落胆が見えて、うっかり本音を吐露してしまったことを後悔した。
「父親を“あの人”なんて言うものじゃないぞ」
背後から聞こえた明るい声は、僕を笑いながら窘める。
「おかあさま!」
レイアは勢いよく振り返り、目を輝かせてその胸に飛び込んで行ってしまった。
「レイアはまだ軽いなぁ!またお兄様を困らせていたのか?」
軽々とレイアを抱き上げて、母は愛しそうに慈しむ眼差しを向けて笑った。
「こまらせてなんかないよ!きいただけ。でも、おにいさま、おとうさまのことすきじゃないっていうから……」
「ああ、それか」
レイアが悲しそうに言うと母は得心したように頷いた。
「お兄様は好きじゃないって言ったかもしれないけど、本当はお父様のこと、大好きなんだぞ」
母は悪戯な笑みをレイアに向ける。
「ほんと?!
「母様! 」
嬉しそうに声を上げてレイアは母と僕を見比べ、僕はそれは違うと言い募ろうとして言葉に詰まる。母の笑顔に見据えられて息を呑んだ。
「本当だぞ。お兄様は、お前達が可愛がられているのが羨ましいんだ。甘えられたらいいんだろうけど、もう大きいから恥ずかしいだろ?甘えられる小さい時に居てくれなかった事が許せなくて、やきもちを焼いているんだ」
「そうなの?!
「そんなんじゃないですよ」
楽しそうな二人に僕はぶっきらぼうに吐き捨てた。
僕が、やきもちなんて。
やきもちなんて……
そんな安っぽいものじゃない。……
うまく纏まらない気持ちを放置して疑問を投げた。
「母様、今日は早いお帰りですね。首長会の後、会食じゃなかったんですか」
ちらりと笑いながら睨めつけて、まるで、うまく逃げたな、と言っているような顔を一瞬だけ僕に向けて、母はレイアに笑みを向けてしまった。
「ああ、断ってきた。今日はあいつ、会議だって言ってたし、爺いの機嫌取りよりレイアの方が大事だもんな?」
レイアは嬉しそうに笑って大きく頷いた。思わず溜息を吐く。
「また代表に嫌味を言われますよ」
「構うものか。言わせておけばいいんだ。それに、私達が仲良く家族をやってる方が、連中だって都合がいいんだ。融和とか、出生率とか、家庭の在り方とか、な。子煩悩を見せつけるくらいでちょうどいいだろう」
ふふん、と鼻を鳴らす様は得意気に見える。長い付き合いになる代表に、女性として先んじた優越とでも言おうか。
現在、オーブ連合首長国の代表首長はロンド・ミナ・サハクだ。
つい五年ほど前まで共同統治を布き、母は首席代表を務めていた。妊娠を機に代表を辞任、ミナに全権を移譲する形で一線を退き、アスハ家当主として首長に収まっている。
とは言え、代表を十年以上共に務めてきたミナにとって、それは些細な違いでしかない。突き付けられる要求や仕事の内容は、以前とさほど変わらないように見える。五年も経つのに、それはどうかと思うけど、周囲の暗黙の了解と本人達の了承があるのだから、僕が口を挟むことではない。
けれど。
母が家に居ない時間は減った。
国を出るような仕事は無くなったし、父がいない時には仕事を放り出してでも帰って来る。彼女達なりにけじめを付けているんだろう。
「……お前に子守を任せるのもどうかと思うしな」
抑えた静かな声で母は言った。
「僕はそんなに頼りないですか。まぁ、そういう名前ですけど」
皮肉を込めて言うと、そういう訳ではないよ、と失笑された。
「出来るから任せて良い、というものではないだろう?子供の面倒をみるのは、本来親の仕事だ。その兄弟がすることじゃない」
母は僕を真っ直ぐ見据えた。
「お前には随分負担をかけてきた。私の勝手で。…ごめんな。
お前は、自分のこと…… もっと自分のことを考えて良い」
悲し気に笑う瞳が向けられて、僕の心臓はとくりと跳ねた。何だか照れ臭くて視線を下げると、寂しそうに俯くカガセが視界に入る。少しだけ笑った。
「レイア、おいで。交代だ。
母様、カガセにはもっと気を付けてあげて下さい、ずっと待ってますよ」
驚いたように顔を上げたカガセは、母と見合わせると恥ずかし気に顔を紅くして僕を見た。レイアを半ば強引に引き剥がす。
「遠慮してたら駄目だ。 ほら」
背中を押してやるとカガセは躊躇いながら母の上衣の裾を握る。母は優しく笑ってカガセを抱き上げた。腕の中で、所在無げに身を起こして俯くカガセに、母は静かに問いかける。
「カガセは遠慮してるのか」
「……だって……しっかりしないと……ぼくはおとこのこだから、つよくないと」
囁くような小さな声で言ったカガセのそれは、泣き出しそうな葛藤を含んで震えていた。
「あにうえだってがまんしてる……あまえちゃいけないんだ。ぼくは、あにうえのようになりたいから」
そうして身を硬くするカガセに、僕は不意を衝かれて言葉もない。母は慈愛に満ちた瞳でカガセを見据えた。
「そうか。兄上のように、な。
でも、兄上だってお前くらいの時には随分甘えていたぞ?ちゃっかり膝の上に座ってたり、抱きついてきたりしてな」
「えぇ!?
カガセは驚きに目を瞠って、くるりと振り向いた。その瞳は僕に本当かと問うている。少し、恥ずかしい気がした。
「僕だって子供だったんだ、そのくらいしたよ。……少なくとも、カガセよりは素直だったかな」
「そうだな。気を遣う子だったけど、とても子供らしい子供だった」
懐かしそうに母は笑った。カガセは感心したように聞きながら、戸惑いに瞳を泳がせている。
「もっと素直でいた方がいいんじゃないかな。今、甘えておかないと、人として大事な事が抜け落ちてしまうからね」
そう言うと、僕の肩でレイアが大きく頷いた。カガセは母に問う瞳を向ける。ただ黙って背中を摩る母の穏やかな瞳に、カガセは漸く身体の力を抜いた。母の首に腕を回して、その肩に顔を埋める。何だかほっとして、僕は心から笑った。