3

その日、父が帰ってきたのは深夜だった。僕は今週組まれていた訓練の報告書を纏めていて、一息吐こうと部屋を出て、運悪く鉢合わせてしまった。
「あ」
「あ……ああ、ただいま」
部屋を出る時に見た時計は、日付を越していた筈だ。
「……遅かったんですね」
くぐもった声で短い返事があった。気まずい時間でもあり、気まずい関係でもある。加えて、会話の下手な人だ、予期せぬ鉢合わせに言葉など出る訳が無い 。
一瞥して通り過ぎ、広い窓辺で伸びをする。
「アエカはこんな時間までどうしたんだ?」
苦しい感じの質問が、躊躇うような音で届く。
「報告書を書いてたんですよ」
僕は面倒臭そうに答えた。
「ああ、電子戦闘訓練の、か」
「ええ。今日が最終日だったので仕上げてしまわないと」
何時の間にか隣に並んだ影は肩が並ぶ。何だか不自然な感じがして居心地が悪い。
僕はまだ出会った頃の印象を捨てきれないのかもしれない。
あの時、僕はまだ八歳で、何だか難しい話をする人だと思ったけど、寂しそうに笑う瞳は優しくて、大きく見えた背中に憧れのような感情を持っていたんだと思う。だから、彼の印象は見上げる背丈のまま。
こんな風に振り返れば目線が合うなんて落ち着かない。
「そちらは?教務ですか?」
「ああ」
答えて深い溜息が落ちる。
彼は有名人だ。前職はプラントの国防委員長で、ザフト・現プラント防衛軍の特務隊にもいたらしい。大戦を語れば、その名はキラと並ぶ。
彼の経歴には疑問も残るものの、実力に関しては折り紙付きだ。軍に居てもおかしくはない。けれど、周知の前職が、もう実動には向かないのだ。
僕だってそんな頂点にいた人と一緒に働くなんて嫌だ。任務なんてとんでもない。
そんな訳で、士官学校の特別顧問とかいう肩書の、体のいい教官をやっている。下手に何でも出来るから色んな事に駆り出されて、結局何でもやってしまうのだ。今日は恐らく次期の教育方針と訓練課程を決める詰めの会議だったのだろう。
「なんて溜息です」
呆れて僕は呟いた。
「首を突っ込んだ時に分かっていたことでしょう?」
自嘲じみた失笑が聞こえる。
「そうだな」
「大体、色々やり過ぎなんですよ。だから何でも言ってくるし、色々頼まれるんじゃないですか」
父は何か言いかけて、何か言いたそうにして、結局口籠った。
ガラスにそっと手を掛けて空に触れるようにして薄く笑う。
「アエカはこの場所が好きか」
「ええ。ここの窓が一番広いですから」
ひとつ頷いて空を見る。僕はその横顔を見据えた。
「ここから見る空が好きだった、ずっと」
思い出すようにして呟くその横顔はどこか遠く、寂し気な色をしている。
「空を見上げたことなんて、多分なかった。プラントの空はいつも同じだったから。ここに来て、カガリが空を見上げていて、空にその時の表情があることを教えられた。夜でさえ……闇の深さが日々変わる。それを知ったここが好きだった」
魅入られたようにずっと空を見上げて呟かれた回想は、故郷を思うような温かい懐かしさを纏っていた。
「戻って来たかったんだ。いつか、温情ではなく、認めてもらえる形で、一緒にこの空を見たいと思っていた」
父がいなかった理由は、ただ居なくなった、逃げたのではなく、何の疑惑をかけられることなく、何の呵責も感じること無く此処に居られる状況を作るためだったのだ。
胸に釈然としない思いは残る。けれど、それがきっと彼のけじめで、義だったんだろう。そう理解した。
「もう叶わないかもしれないと思った。だが、戻ってこられて……議長の駒として来た訳じゃない。自分の意志で来た。だからここで出来る事があるなら、それを持っていたいんだ、出来るだけ」
言いたいことは分かる。けれど。
「過ぎたるは及ばざるが如し、ですよ」
言って、軽く溜息を吐く。
振り向いた顔は少し驚いていた。
「今度母様を泣かせたら、本当に討ちますからね」
「……物騒な事を言うな。可愛くない子だ」
「もう17ですよ、可愛かったら気持ち悪いでしょう」
僅かに笑って肩を竦める。父はあの優し気な瞳で僕を見据えた。あの時と同じ瞳で。
やっぱりあの時。知ってたんだ、僕が実の子だ、て。
嬉しいような、悔しいような。
憎まれ口を叩きそうになって窓辺を離れた。
声が追ってくる。
「あまり根を詰めるなよ」
僕は頷いて、少し笑った。
甘えたいのに甘えられなくてやきもちをやいている、と言った母は僕の心の底を見透かしていたのかもしれない。
本当の気持ちに気付きたくなくて目をふせた。