望月

 ぱたぱたと軽い足音が背後から近づいてくる。その足音には聞き覚えがあった。
 ―― こんな所で走るなんて、あいつくらいだ。
「アスラン!」
 思った瞬間、呼ばわった声は予想通りで、若干苦笑して息を吐く。敢えて振り返らずに歩を進めた。
「おい!アスラン、お前っ……待てよ!」
 歩調も緩めずにいると、やがて追いついた声の主が肩口を掴む。
「何だよ、無視するなよ」
 軽く振り向いて失笑した。
「……声が大きい、キラ」
 どうせ大した用じゃないんだろ、と続けると、否、と答える。
「手合わせするぞ、アスラン。約束しただろ?」
 言って、にやりと笑うその顔は悪戯好きな少年そのもの、アスランは面食らった。
「冗談だ、と言わなかったか」
「そうだったか?」
 遠回しな拒否をバッサリと切り捨てる。並ぶ肩を恨めしく眺めた。

「なんだお前、できるじゃないか。」
 その暁の瞳を丸くして身を乗り出す。
 結局、アスランの帰宅に乗じてそのまま押しかけ、箏を二面並べて向かい合っている。簡単な小品を幾つか、よく知られている練習曲と、最後に流行りの曲を一つ一緒に弾いた。
 そして、丸かった目の前の暁は眇められ、胡乱な眼差しで言う。
「嘘つき」
「できないと言った覚えはない。苦手だ、と言ったはずだ。」
 ふん、と鼻で息を吐き、アスランは面倒臭そうに答えた。すると暁は挑戦的な色を帯びて笑う。
「よし!じゃぁ、付いてこいよ?」
「え?」
「即興だ。合わせろ」
 言い終えないうちに指が動いている。弾かれた弦が揺らす空気は、こちらを窺うように緩やかに流れ、時折誘うように向けられる暁に渋々手を動かした。
 巻き込まれていくように鳴らす弦が旋律を奏で出す。その旋律を掬って音が重なる。重ねられた音は響き合い、深さを増した。
 ふふ、と声を立てて笑う“キラ”に目をやれば、本当に楽しそうな顔で筝に向かっている。その様につられて弦を弾いた。音を膨らませて流れが速くなる。それはやがて奔流となって勢いを増した。絡ませていく旋律は、時折縺れながら、付いてこい、と言った割に促すような運びで音を引き出し、攫っていく。
 弾かされている。そんな感覚だった。
 けれど、それは苦痛ではなく、指は自然に弦を選び、弾かれた音が旋律になる。型通りではない不思議な旋律のそれは奇異なようにも聞こえたが、逆にそれを面白いと感じた。
 ―― 異国の調べのようだ
 ぼんやりと思い始めた頃、キラは音をまとめにかかり、それに応じて広げた音を収束させる。
 軽く息が上がっていた。額を拭うと、しっとりと汗が染みる。
「はぁぁ!楽しかったぁ!久しぶりだよ、こんなの」
 満足げに笑ってキラは額に袖を当てた。衣が揺れる。ふわりと覚えのある香りが立った。
「何か滅茶苦茶な気もしたけど……音の運びが面白いな、お前。どこで覚えたんだ?」
 キラは座り直し、身を乗り出すようにして正面から問う。しかし、その問いはアスランには届かなかった。
 ―― この、香り
 思う間にも、キラは箏の上に乗り出して話し掛けてくる。
「できるんだから、人前でももっと弾けばいいのに。なぁ、今度」
 不意に手を伸ばした。その頬に触れて、アスランは身を乗り出す。
「なに……」
 触れられた瞬間、ぴくりと震えてキラは口ごもった。驚きを隠さない顔に呟く。
「いい匂いがする」
「は?」
 動揺からか離れようとするキラの後頭部に手を回し、アスランは顔を近付けた。
「やっぱり、キラからだ」
「なに、言ってるんだよ」
 キラは逃れようとして身を引いたが、その手は離れまいとついてくる。更に身を乗り出す形になったアスランの膝が磯を打って竜が鳴った。
 尚も至近距離にあるアスランの瞳を、キラは凝視する。自然、見詰め合う形になり、恥ずかしくなって目を逸らした。
「ぅ?ん!!」
 途端、口を塞がれて慌てて目を戻す。視界は青く染まっていた。
 何がどうなっているのか。
 反射的に後退るが、状況は全く変わらない。しっかり捕まえられているらしい、とキラは判断した。後退った分、箏を踏み越えたのだろうアスランの衣が弦をばらばらと鳴らす。
 半ば密着したアスランの肩を思い切り押し返して、キラは咳き込んだ。
「な、に、するんだ、よ」
 咳のせいで涙目になりながら更に後退る。
「え……これって、まさか」
 キラは唇を指でなぞって青褪めた。そのまま視線をアスランへ投げる。視線は合っているはずなのに、その瞳はキラを見ていない、そこにあるままのキラではない何かを見ているように思えた。
「ちょっと、待て」
 掴まれた腕に狼狽して思い切り身を引く。怯えた様子を顕にするキラを引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
「待てよ!やめっ」
 制止の言葉を塞ぐ強引な口付けに、藻掻くように必死に抵抗する。
 拘束する腕からは逃れたものの、裾を掴まれてキラは床に引き倒された。衣は縒れて弛み、乱れた髪は鬢からこぼれ、体を打ち付けた衝撃に一瞬意識が飛ぶ。目を開けた時にはアスランに組み敷かれていた。
 こぼれた金の毛束を指で掬って、アスランは美術品でも鑑賞するかのように微笑む。
「綺麗だ」
「やめろ」
「こんなに光を湛えて輝くなんて」
 髪を放した指は耳朶をなぞって頬を撫でた。軽く息の上がっていたところに暴れてすっかり紅潮してしまった頬は、ふっくらとして柔らかい。見た目よりずっと張りのある滑らかな肌の手触りに、今までに感じたことのない何かが湧き上がってくるのをアスランは感じた。
「……男にしておくのが勿体無いな」
 背筋に寒気を感じてキラは小刻みに震える。
「だめだ、こんなの……アスランじゃない」
 掠れた声で言うと、キラは眉根を寄せて、嫌悪を滲ませた瞳をアスランに向けた。
 ―― このまま動けずにいたら、ばれてしまう ――
「そうかもな。けど」
 あんまりいい匂いがするから。アスランはキラの耳元にそう囁いて、頬を撫でていた手で首筋をなぞる。びくり、と大きく震えて、瞳の端に辛うじて留まっていた涙が零れた。
「やっ  だめだ、こんなこと」
 ―― なんとか、しないと ――
 首筋から肩へ、肩から胸へ、と下りてくる手を払おうとキラは手を振り上げる。その手は易易と捕まえられ、掲げられた。袖が捲れて腕が露わになる。手首を掴んでいた手を露わになった部分に這わせて、アスランは目を細めた。
「綺麗だな、本当に」
「いっ……いや、だ!」
今度こそ手を払ったキラは、その手をアスランの肩に打ち付け、押し返し、睨み据える。だが、背筋を粟立たせる感覚と恐怖で体に上手く力が入らない。手は縋り付くように、瞳は切なげに揺れるように見えただろう。悔しくて泣きそうだった。
 ―― これじゃ、気付かれる ――
 潤んだ暁の瞳に吸い込まれるように、アスランは両手でキラの両頬を包んで顔を近付ける。
「……やだ。嫌だ、やめてく」
 言葉を喰むように口付け、くすり、と笑う音がした。
 怖い、という強烈な思いが湧き上がって、必死に押し返すが効を奏さない。どうにもならないのを見て、キラは滅茶苦茶に腕を振り回した。徒に体力を消耗して、制御の利かなくなった腕がアスランの喉を掻く。
「っつ!」
 不意に拘束が緩んでキラは荒く息をする。掴まれた右手が肩口で静止していた。
 開けた視界に一筋の赤と象牙の爪が映る。位置からして、この爪で傷付けたに違いなかった。爪とは言え、薄く鋭いものではない。強度が必要な分、それなりの厚みがあるからかえって鈍い。血が滲む程の傷を残したなら、相当強く当たっただろう。
「あ……ごめ、ん、爪……」
 黙っているのは、怒っているからだろうか。そんなに痛かったのだろうか。すう、と冷えた思考に、傷に留めていた目を上げて、動きを止めたままのアスランの表情を伺った。
 かち合うかと思った視線は合わない。驚愕の表情を浮かべて一点を見据えているアスランの視線を追った。
 その先に見えたのは、もみ合ったせいで着崩れた自らの着衣。いつの間にか外れて開いた袍の袷、そこから差し込まれたアスランの右手が、単の襟を握っている。
「えっ……あ!」
 乱れた襟元が押し開かれて胸元が曝されていた。急速に引いていく血潮の音が耳を聾す。慌てて身を起こして、掴まれていた右手に力を込めて振り解き、襟を握る手を引き剥がした。
「おん な、……だった、のか」
 酷く混乱して目眩がする。震える手で襟を掻き合せた。アスランの呟きが辛うじて耳に届く。
 気付かれるどころではない、見られてしまった。もう、どうにも誤魔化せない。
 力で征される怖さと、制裁の恐ろしさが頭に過ぎった。自分は、キラは、家はどうなるだろう。
 ―― 取り敢えず今は、彼が、アスランが動揺している隙に ――
 早く逃げ出したかったが、膝が打ち合って上手く立ち上がれない。
「キラ……」
 伸ばされた手に、彼女は頭を激しく横に振った。それを合図にするように立ち上がる。一瞬だけ合った瞳は苦しそうに歪み、涙を溜めて酷く哀し気に見据えてきた。捕まえようと更に伸ばした手を掠めて、彼女は駆け出す。
 起こったことを受け止めきれずに、アスランは茫然と彼女の背中を見送った。