10

 夕闇の色が混じりかけた空が大気の熱を攫っていく。風が大地の熱を巻き上げて混ぜ返す。遠く海を渡って来た風は、冷気を纏いながら地球の体温を含んで柔らかく頬を撫でた。
「終わりましたわね」
 海へ延びる道を歩きながら、静かに語りかける。風に舞う髪の桃色が空の色に溶けた。彼女の髪が夕刻の雲の色だったことに気付いてそれに見入る。中途半端な返答が漏れた。
「ごめんなさい。お疲れなのに、無理を言ってしまいましたわね」
「いや。私も来たかったんだ……来るべきだと思っていた」
「そうですか」
 彼女が目を細めるのを目の端で捉えた。空を指す石碑を見据える。講和条約は締結された。この戦争にひとまずの終止符を打つ立役者となったオーブで。

 地球圏は最後まで揉めた。殆どが連合に所属していたとはいえ、力で併合された感のあるそれは、名を連ねて戦ったもの同士とはいえそれぞれに言い分も目論見もあり、それなりに折り合いをつけた結果、条約そのものはユニウス条約に準じるもので決して満足のいくものではないが、数年、あるいは数ヶ月、世界を戦争から遠ざけてくれるだろう。取り敢えず、この戦争は彼女が言った通り終わったのだ、と息を吐いた。

 終わったと言った彼女は、講和条約締結前にプラント最高評議会議長に就任していた。歩を進め、海へと近付く彼女の背が、ゆっくりと遠くなる。足が鈍った。軽く振り返り、上る大地を見上げる。
 焼いてしまった大地を。
 低く緑が揺れている。ちくりと痛む胸を押さえて目を閉じた。聞くことしか出来なかった名を思い起こして僅かに黙祷する。ゆっくり瞼を開いて再び大地を見た視界の隅に、影を捉えた。驚いて振り返る。
「シン……!」
 呼ばれた人物は気まずそうに視線を下げて歩んでくる。数歩離れたところで立ち止まり、上る大地を見遣った。
「ちょうど、この辺だった……」
「うん」
 並んで見上げる。その大地に、それぞれの“あの日”を見た。
「俺は……家族を失くした。あんた達のせいだ、あんた達が殺した、そう思ってた。だから、今度は俺が、俺自身が守ってやるって思って、力を持てば大切なものを守れると思って軍に入った。でも、結局何も守れはしなかった。その力を振り回して、何人も俺のような子供を作ったんだろう。今は、それが分かる」
 その大地を見据えたまま、シンは静かに言った。
 あの時の悲しみも、悔しさも、忘れられる訳が無い。それは未だ大きな喪失感として胸の内を占拠している。この痛みを和らげるために起こした行動も、自分の無力さを思い知らされただけで、慰めにはならなかった。かえって増えた後悔が胸に痛い。組織に入って得た力は、所詮組織の力だ。第一にその組織の益の為に行使される。守れるものなどせいぜい自分の地位くらいで、命の保証すらない、そんなもので何が出来たというのだろう。縦しんば守りたいと思ったものを守れたとしても、それは、誰かの父を殺し、誰かの兄弟を奪い、誰かの大事な何かを壊して成し遂げられたことだ。自分が望んだことは、自分と同じ思いを誰かにさせることで成された。力を得て知ったのは、その悪循環と空虚だった。
「そうか」
 弱く微笑んで、カガリはシンを見る。
「……ごめん。俺、酷い言い方したよな。あんただけが悪いんじゃない。自分が誰かの家族を殺して初めて分かるなんて、馬鹿だよな」
 ふ、と笑った。自嘲を含んでシンは戸惑いながら振り向いた。緩やかに風が吹いて深紅の瞳を揺らす。その視線を柔らかく受け止めてカガリは言った。
「いや、お前は間違ってない。戦争を止められなかったのは私達だ。理念を貫くことが出来なかった。どんな理由があっても、それは言い訳にしか過ぎない。だからせめて……忘れない」
 もう一度、大地に向かって僅かに目を閉じる。そして真っ直ぐにシンを見た。
「報告に来たんだ。この戦争も一応終わらせることが出来た、と。だから、暫くは安らかに眠ってくれと、マユに。焼いておいておこがましいけどな」
 息を呑んだシンにカガリは悲しげに笑って視線を下げる。ごめんな、と呟いた声は風に流された。
「あんた……」
「あんたじゃない。カガリだ」
 人差し指を鼻の先に突き付けて、真剣な表情で窘める。瞬間、憮然としたがシンは視線を外さなかった。すぐに表情を緩めて、ありがとう。 僅かにそう呟いた。


「あら、シン。どうされましたか?」
 柔らかな声が風に乗って響く。はっと顔を上げて、カガリの向こうに歩み寄るその声の源を認めた。その手に携えられていた花束は今は石碑に捧げられており、彼女はシンとカガリが“その場所”で思いを馳せている間に、空を指す石碑を通じて祈ったのであろうことが窺い知れた。シンはラクスを真っ直ぐ見た。
「お迎えに参りました」
「もうそんな時間ですか?」
 ゆったりと微笑んで訊く。条約締結を祝しての会食が予定されていた。多分、開始時刻だと言っても焦ったりはしないのだろう。少し恨めしく思いながらシンは答えた。
「未だ少し余裕はありますが、いろいろと準備も……」
 言い淀んで、釈然としない気分の、その理由に目を向けたのはラクスとほぼ同時だった。
「てか、あんた! 何やってんだ! 主催、あんたの国だろ!?」
 捲くし立てた言葉はカガリを素通りしたように見えた。その言葉を受け止めるより先に、カガリの視線は空へ薙いでいた。
「大丈夫だ。私は準備なんて要らないし」
「はぁ?! そのまま出るつもりか?! 着替えぐらいしろよ、恥ずかしいだろ!?」
 驚いてシンに視線を戻したカガリに、シンが噛み付く。
「仮にも一国の主だろうがっ! ……俺の祖国に恥をかかせるなっ」
 カガリはくすりと笑った。今にも掴みかかってきそうなシンに、困ったような笑みを向ける。
「うちにはお前より煩い筋金入りの世話焼きが居るんだ、そんなこと出来る訳無いだろ? そういう意味じゃない」
 更にくつくつと笑い声を立てるカガリに、シンは苛立ちの目を向けた。カガリは続ける。
「一国の主に対するにしては随分軽い口調だな、シン。相変わらずなのはいいが、お前の方が恥をかくぞ」
 ラクスまでもがくすくすと笑い出した。もうそれなりの場に出ることもあるんだろう? と付け足されてシンは、眉尻を下げて極まり悪そうにラクスを見る。そんな様子に更に笑った。
 一頻り笑ってどちらからとも無く溜息を吐く。目を逸らしていたシンの耳に、低い轟音が届いた。
「時間だ」
 カガリは再び空を仰ぐ。遠い点が高速で近付いてきていた。
「祖国、か。……いい響きだな」
「今度焼いたら許さないからな!」
「ああ。分かっている。 じゃ、ラクス。また後で」
 そう言うと来た道へ駆け出してゆく。遠くなる背中にラクスは、あ、と声を上げ、呆れた溜息を落とした。
 ややあってシンに並ぶ。
「カガリさんのこと、もう嫌いではないのですか?」
 驚いてラクスを見るシンに、首を傾けて先を促した。シンは間を置かず頷く。
「自分は、あいつが出来なかったことを見て腹を立ててました。一番偉い奴がこうすると言えばそうなると根拠も無く思ってたから。子供だったんです。政治がそう簡単には行かないってことも、あいつの立場のことも少しは分かってきて、力が無いって言ってた意味も分かって、俺、少し同情してるんですよ。それに」
 逡巡するように足元に視線を彷徨わせ、照れ臭そうに呟いた。
「あの人が、真っ直ぐでいい奴だって言ってたけど、そうだなって。頼りないけど、あいつになら任せてもいい気がしてるんです」
「そうですか」
 ふわりと笑ったラクスを沈みかけた日が柔らかに照らす。駆けていった残像がシンを捕らえていた。藍に侵食され始めた空は静かに夜へと滑り出した。