14
夜半から降り続いた雨は昼過ぎに上がった。既に強さを失いかけた太陽が草木に留まる水滴を輝かせる。柔らかく光る芝に惹かれてカガリは庭へ出た。ゆっくりと歩を進める。爪先のじわりと湿る感覚が心地良かった。揺らぐように注ぐ陽の光に微笑む。
あの後、カガリはミナと共にオーブへ降りた。一週間で押し切るように共同統治を宣言し、新体制を発表。人事を大幅に移動した為、多少の混乱はあったが、ミナの後盾を得たカガリは強かった。何しろ、一番の批判者を味方につけているし、今回の組閣にはミナも大きく関わった。批判されるのはいつものことだが、その対応を一人でしなくていい、というのは気分的に大いに違う。
あれだけ批判していた彼女も、実際腹を割って話してみれば願うものはほぼ同じだった。ただ、主観が、カガリはどうしても民に近く、ミナは世界に近い。国を建てていくにはミナの言うことの方が通っているが、人心は民の声を語るカガリに向かう。ミナの国は場所になりやすく、カガリの国は人になりやすい。一歩踏み込んで、見据えて、そうしてその結論に至るのに時間はかからなかった。どこかで互いを認めていたのかもしれない。動機はどうであれ、共に治めることになったこの国は安定するのだろう。爪先で弾いた滴がきらきらと散るのを見ながら、そう思ってカガリは安堵の溜息を吐いた。
懐妊を公表したのは新体制発足から一週間、渋るカガリを無視してミナが独断で行った。だから2,3日は非常に機嫌が悪かった。丈の長いゆったりしたスカートを着せられ、何をするにも手を出され口を出され、まるで腫れ物に触れるような態度を取られる。
「今更何だ!」と怒鳴った瞬間、ミナに笑われた。
「今更、はお前が隠していたからだろう。皆それだけ大事に思ってくれているのだ。好意を無にするな」
そう軽く窘められた。
まだ一週間も経っていないのに懐かしい気さえする。公表の時点で既に30週を超えているだろうという医師の診断に、政務が大幅に削られた。どう過ごしていいか分からない時間が、一日を長く感じさせる。そうして今日も、残すところはどう過ごしていいか分からない時間だけとなっていた。溜息を吐いて足元を見れば、先に丸く膨らんだお腹が目に入る。途端に様々な思いが去来して心が波立った。最後の残像は、色。その懐かしく温かい色は此処にあるのか?どうしようもない不安が胸を締め付ける。
「カぁガリ」
高い声に名を呼ばれて振り向いた。有り得ないと言っていいほどのことに目を丸くして。
「そこでマーナさんに会って、入れてもらっちゃった。……いけなかった?」
明るい笑顔は少しも“いけなかった”と思っているようには見えない。近付く笑顔を笑顔で迎えた。
「ミリアリア。久し振りだな。仕事か?」
肩掛けの四角いカメラバッグが目に入って、そう訊いた。
「まぁね。いつでも仕事中でいつでもお休みよ。急にいい画に遭った時に悔しい思いをしたくないから、持っているだけ」
お守りみたいなものね、と呟いて笑った。そうか、と受けて羨ましそうに笑う。
「ご懐妊のニュースはネットで見たわ。おめでとう。……ていうか……結構お腹大きかったのね、全然知らなかった……」
先程の笑顔は消えていた。ミリアリアの目は大きく開かれて丸く迫り出したカガリのお腹を見詰めている。
「ああ……大きかったんじゃなくて大きくなったんだ。仕事減らされてから急に出てきちゃって」
少し困った顔でカガリは無理に笑った。その変化を受け入れられない、とその顔が語っている。
「安心したのね」
その声のトーンは落ち着いて柔らかい。ミリアリアは優しく笑った。
「政務のある時は緊張の連続でしょ? 減らされて落ち着いたんじゃない? 赤ちゃんも、ママも」
考えても見なかった言葉に息を呑む。見据えたミリアリアは優しい笑みを向けていた。
「そうか。ずっと居心地が悪かったんだな……ごめんな」
カガリはそっとお腹を撫でる。一瞬だけ複雑な顔をして、ミリアリアは全てを飲み込むように瞳を伏せた。こんな優しい仕草をする人だっただろうか。我が子を慈しむその様に、この事象に対する思いを、引き写す想いを見た。そうして、吹っ切るように目を上げる。
「そうだ!写真、撮らない?」
瞳を輝かせて言うミリアリアに戸惑って、カガリは訝しげに眉を寄せた。
「でも、それって……」
「あ、あれよ、個人的に、よ? どこかに売ろうとか、そういうんじゃないわよ?」
慌てて付け加えたミリアリアは、手をぶんぶん振って笑った。そしてすっと笑みを引いて寂しそうに、憐れむようにカガリを見た。
「……彼は、知らないままなんでしょ?」
胸を貫いていく衝撃は彼女を硬直させた。ミリアリアの瞳が返答を求めて、我に返る。
「な、何言ってるんだ。この子はユウナの子なんだ、あいつが知る必要は無い !」
慌てて声高に言い放つカガリに、ミリアリアは溜息を吐いた。
「私にまで嘘を吐かなくても大丈夫よ。……それに、その答え方、全然隠せてないわ、外では気をつけてね?」
俯いてカガリは曖昧に返事をする。そんな素直な仕草にミリアリアはくすりと笑う。良く言えば年相応、悪く言えば世間知らず。頼りない。けれども拗ねず、立って、前を向く。あの時も、ちゃんと自分の言葉を聞いてくれた。国を代表する首長なのにこんなに近しく思うのはこの所為なんだろう、と好ましく彼女を見る。
「どっちにしても。この子が愛されて生まれてくるなら、記念はあってもいいんじゃない? 写真、撮りましょ、私も一緒に写るから。ね?」
説得されているような雰囲気にカガリは苦笑した。
「わかったよ」
渋々頷いて参ったという風に頭を掻く。記念など、考えたこともなかった。この結果を招いた行為が禁忌であることを知っている。罪の結果を記念しようとは思わない。けれど、彼女は、例えそれが罪であっても、命は、生まれることは祝福すべきだ、と言うのだ。
大事なものという認識はある。守るべきとも思う。それでも、それを喜ばしいと捉えたことはなかった。罪を覆える事実の存在と、全てを欺く後ろめたさがあるからだろう。その意識に、迎える命そのものに対する観点が欠落していった。知ってか知らずか、ミリアリアはそれを事も無げに覆して、その命に目を向け、歓迎さえする。人とは、こんなに温度を持ったものだったのか。手馴れた様子で着々と準備を進めるミリアリアを、カガリは呆然と見詰めた。
「あ、もうちょっと右向いてくれる? そう、そんな感じ。ちゃんと笑ってね? 行くわよ?」
タイマーのボタンを押してミリアリアが駆け寄る。その足元で水滴がきらきらと弾けた。綺麗だな、と目で追って、掴まれた肩に微笑む。ミリアリアの視線を追って、カメラが視界の中心に来たところでシャッターが切れた音がした。
「出来たら送るわね」
見合わせて小さく笑った。
後日、送られてきた写真には、曇りなく笑うミリアリアと、寂しげに笑うカガリが写っていた。
その儚げな笑みは、向けられる好奇と避けられぬ非難を引写しているかのよう。脆くも崩れてしまいそうな、なんて弱々しい。ボロボロだな。とカガリは自らを嘲った。
添えられた一文には、 幸せな笑顔で天使を迎えられますように。 とあった。ますます自嘲しながら、カガリはミリアリアの心に静かに感謝した。