16

 名を呼ぶ声がする。遠く、幽かに聞こえるそれは、叫ぶような硬さを以って呼んでいる。僅かに判別した音の形は自分の名を示した。途切れそうになる意識をどうにか繋いで、意思の力で瞼をこじ開ける。
「カガリ!!」
 覗き込む双眸に安堵の光が差した。虚ろにその薄紫を眺める。
「良かった。駄目だったのかと思った……」
「……簡単に人を殺すな」
 薄らと苦笑した。この弟はその乗機を駆ってしばしば地球へ降りてくる。その多くはラクス・クラインの特使という形を取っているが、実際、特使らしい行動を見た記憶が無い。カガリとその周辺の様子を窺いに、まるで親が一人暮らしの子供の部屋を訪ねるような感覚で来ているように見える。今回もその一つ、つまり、様子を窺いに降りて来たら、出産が始まっていた、そんな感じだ。
「だって、その……凄く、辛そうだったし……」
「ああ、男には耐えられない、て言うな」
 口角を上げたカガリに、僅かに眉を上げ、しかし、切り返せるほどの元気はあるのだとキラは表情を和らげる。


 カガリの出産は順調には進まなかった。実に三晩に亘った陣痛は彼女を疲弊させた。それが始まった当初こそ、その痛みに期待し楽しむ余裕さえあったが、二日を越えると表情は徐々に苦しみへと変わる。実を生み出す痛みではない、そう感じたからだ。時折弱まりながら、それは進む気配の無い痛みであることを示す。それでも三日目の夜を越え、進む気配の無いまま激しさを増した痛みは希望のようにも見えたが、それは胎児の心音と共に弱まった。消耗して朦朧としたカガリは有無を言わさず運び出され、そうして緊急手術が行われたのだった。
 固く目を閉じ血の気の引いた顔で戻ってきたカガリにキラは動揺した。そして、名を呼んだ。
「……無理をしすぎたんだって先生が言ってたよ」
「無理 ?」
「うん。疲れていて、体がお産に対応できなかったんだろう、って」
 軽く目を伏せて笑ったカガリは自嘲しているようにも見える。
「頑張ったね」
 気遣うように、そっと髪を撫でてキラは笑った。驚いたように開かれた瞳にその笑みが映って揺らぐ。


「失礼しまぁす」
 半ば無遠慮に開かれた扉に看護師が現れた。その腕に眠る赤子を抱いて。
「赤ちゃん、お連れしましたよぉ。はい、抱いてあげてくださいね?」
 看護師は赤子をキラに差し出した。
「え? 僕が?」
「……ご家族の方ですよね?」
 慣れた口調で問う看護師に僅かに失笑して、そうだとカガリが答える。では、是非。と看護師は笑った。
「頭とお尻を支えてあげれば大丈夫ですから」
 曖昧に返事をしてキラは恐る恐る手を伸べる。手馴れた様子でキラの腕に赤子を移すと、看護師はカガリに笑い掛けた。
「大変でしたね。でも、この痛みを経験したことは絶対無駄にはなりませんから。自分を責めちゃ駄目ですよ?
 ……じゃぁ、暫くしたらお迎えに来ますね」
 パタパタと扉の向こうへ消えていく看護師を失笑したまま見送る。その目をキラへ戻せば、キラは赤子を凝視して固まっていた。
「何、固くなってるんだ?」
 カガリはこちらにも失笑する。目を上げてカガリを見返したキラの表情も凍りついたように硬かった。思わず笑みを引く。
「カガリ……こんなことって……」
「え?」
「……ス、ラン ?」
 無意識に眉を顰めた。
「まるで ! まるで生き写しじゃないっ」
「 うん。私も驚いた」
 睨むように見据えられてカガリは目を逸らす。
「血は争えない、てことだな」
 儚げに笑むカガリに、キラは息を呑んだ。腕の中の赤子は一心にキラを見詰めている。
「幸い、髪も瞳も私の色だ。成長すればまた変わる。暫くは秘しておくさ」
「出来るの? そんなこと」
「何とでもする。それは」
 キラは真直ぐにカガリを見据えた。情報統制するということだろうか。よくあることだし、勿論それは出来るだろう。けれど、そういうことだろうか。それで済むのだろうか。
 ある程度成長するまで露出を極力控えたとして、隠し遂せるものなのか? それとも、疑惑を投げかけられても、嘘を吐き通せばそれが真実になる、ということなのか?
 ――それが、この状況で母になる“覚悟”なのだろうか。
 突如声を上げた赤子に思考が中断される。よく通る力ない声は二人を戸惑わせるに十分だった。
「ど、どうしよう?!」
「あ、あやしてやれよ、とりあえず」
 あやすって何? とキラはおろおろする。赤子はますます声を大きくした。仕方ない、此処へ下ろせ とカガリの示す枕元へ恐る恐る赤子を下ろす。とんとんと軽く胸を叩いた。
「大丈夫だ。お前が心配することは何も無い」
 不安気に声を上げる赤子を胸に抱き寄せて撫で摩る。よしよし、大丈夫だ、と繰り返し言いながら赤子を撫でるカガリに、妙な既視感を感じてキラの表情は複雑に歪んだ。
 初めて会ったあの頃から、カガリにはそういう包容力があった。それは母性と言うんだろうけど、それにどれだけ救われただろう。なら今度は、力になってやらなくては。助けてあげたい、カガリの望むように、この二人を守ろう、とキラは思った。
 ふにゃふにゃと声を弱める赤子に安堵の息が漏れる。
「何か今、自分がとっても無力に思えたよ」
 溜息交じりに肩を落として呟いたキラに、カガリは そういうこともあるだろ、人間だからな、と返した。うつらうつらしはじめた赤子を見ながら笑う。
「男の子、だっけ?」
「うん」
 これで女の子は、ちょっと、嫌だな。とカガリは苦笑する。そうだね。とキラも苦笑した。
「アエカだ。アエカ・ソラ。よろしくな」
「アエカ……ね。よろしく」
 そっと赤子に触れる。温かい。その温度を、今度ははっきり認識できた。
「……私達も、こんな風にしてもらったのかな」
 そう呟きながらカガリは母に抱かれた写真を思い出す。キラも恐らく同じものを思い起こすと予想して。
 切ない沈黙が満ちた。


 看護師は予告通り程なくやってきてアエカを連れて行った。どちらからともなく溜息を吐く。
「随分、気安い看護師さんだったね」
「仕事に忠実なんだ。いいことじゃないか。……私はそのほうが助かる」
 そうかもね、とキラは笑った。
「行ってしまうと、寂しいな」
 赤子の温みはまだそこにあるのだろうか、少し窪んだそこに手を当てて、泣き出しそうな笑顔で言うカガリにキラは鏡のように笑い返す。
「うん。……でも、仕方ないね。カガリはまだ、動けないから」
 テープでしっかりと針を固定され確保された血管には、二種類の液体が流し込まれていた。その血管は冷えて、時折痛む。けれども、それを感じる意識は失せようとしていた。
「キラ」
「何?」
「凄く、眠いんだ」
 三日眠れず、あれだけ消耗して、開腹手術を受けて、命を生み出したのだから、体が休息を求めるのも無理はない。こくりと頷いた。
「うん。  おやすみ、カガリ」
 ゆっくり、休んで。そう言うと、カガリは安堵したように笑って、すうっと目を閉じる。ゆっくり繰り返される細い呼吸に心が漣立った。なんて、儚い。まるで、消え入りそうな。
 そうか、それで。頭の中に言葉が浮かぶ。その守るべき、守りたいものは、弱く、脆くて、儚い。いつの時代にも、それは掌から零れ落ちる様に消えてしまう。当主として、それを銘じる為。
 だから、アエカ なんだね……
 そうして、と目を上げて見る空は、藍がじわじわと残照を侵食していた。