17

 まんまと騙されている、何て巧妙な。
 テラスから見る空間は暗く、小さく明かりが瞬き、それはまるで地球で見た星空のようだった。その暗さは、アエカが月に来て二度目の夜を迎えていることを示唆する。動力が切れればただの無機質な壁になるのだろうに。……ああ、それはそれで真っ暗なのか。
 くすりと笑う。地球の、24時間のサイクルに合わせて都合よく作られた世界。月の都合は考えず、宇宙を目指しながら頑なに地球のリズムを刻もうとする人類。
 大いなる矛盾。
 そう感じて軽く嗤った。後ろでキーを叩く軽い音が聞こえる。キラ、また仕事かな……そう思いながら、そんなことに拘っていては、生きることそのものが怪しくなってくることもぼんやりと感じている。
 アエカ・ソラ、8歳。留学生として一週間の滞在。
 そう自分について頭の中で述べて、また笑う。裏でどんなことがあったかは知らない。おそらく半ば強引に事を進めたのであろう母にほんの少し、詫びる。
 昨夜は、独りでシャトルに乗ったことと、月でも独りで行動しようとしたことで、たっぷり油を絞られた。同時に、無為にアエカを呼ばわった男もみっちり説教を喰らった。お陰で、今日は初登校だったのに相当酷い顔だったに違いない。
 ふぅ、と溜息を吐く。体は少しきつかったが、そんなことは、どうでも良かった。月を知り、月に縁を持つことが目的ではない。母には、外の世界、地球の外の生活を見てみたい、と言った。でも、それは口実でしかない。目的はほかにある。その目的を遂げられる可能性は無いに等しいが、それでも動かずにはいられなかった。
 ――自分をこんなに駆り立てるのは、一体何なんだろう――
 慣れない環境下、緊張の連続で、普段より早めに感じ始めた倦怠感が眠気を誘った。一つ欠伸を噛み殺して振り返れば、手を止めたキラが無表情に画面を見据えている。一歩踏み出すとこちらへ視線を投げた。
「仕事?」
 何気なく聞くと目を逸らして薄く笑った。
「いや。あ……うん、仕事、かな」
 照れたようにして再びアエカを見る。
「昨日のこと、カガリにね」
 さっと顔色の変わったアエカに、さも可笑しそうに笑ってキラは言った。
「うそうそ、冗談だよ。 ラクスに、ちょっとね」
 意地が悪いな、と睨むといつものように曖昧な表情をする。
「全く。仲が良いね」
 間髪居れずに、うん、と返事があってアエカは少なからず呆れた。皮肉のつもりだったのに。そして。
「……母様も、父様と……   」
 言いかけて呑み込んだ。聞いてどうしようというのか。何が変わるわけでもない、ただ、もしも彼等もキラ達のように温かな関係であったなら、少しは救われるような気がしたのだ。頭を振って俯き、そのまま行き過ぎて、おやすみ、と呟いた。
「……仲は、良かったよ。恥ずかしいくらい、真直ぐでね」
 落とされた言葉に顔を上げて振り返ったが、おやすみ、と付け加えたキラに、それ以上は今は不可侵だと釘を刺される。アエカは眉根を寄せた。軽い嫌悪に押されてその場を離れる。
 おかしい。
 教えられた父を、母は好きだと言ったことが無かった。元より封印し、禁忌であるかのよう、そして実は彼については何一つ知らないのでは、と思えるほど口が重い上に、父について語る時、その声はいつも苦味を帯びていた。その結婚は名実ともに政略結婚で、気持ちなど毛の先程も無かったのだと思わざるを得ない。なのに。
 恥ずかしいくらい、真直ぐ、とは?
 あの母のこと、気持ちが無ければその振りすら難しい、まして、キラに見抜けない訳がない。なら。
 やっぱり。
 じわり。キラに対する苦い気持ちと、感じていた違和感の根拠の確信、母のつかみどころの無い闇が、胸に広がってゆく。


{ですから}
 無意識に握りこんだ手に爪の痕が刻まれてゆく。
{エターナルは新組織の旗艦にいたします}
 ZAFTについて、政治結社の名を廃し、国軍としての名を冠すると同時に、人類社会の治安維持に努める部隊を発足し、別組織とする、とラクスは言ってきた。その案件は既に評議会を通ったらしい。
 自然、渋い顔になった。ラクスのことは傍近くで見守っていると思っていたのに、自分の知らないところで事が動いていく。彼女の責務と自分の立場を鑑みれば当然の事だが、気持ちはねじれた。
 それはいいとして、今、何故それを自分に告げるのか。
{キラには、その組織の統括をお願いしたいのです}
 唐突な申し出に戸惑う。賛同できる改変ではあるものの、その意図するところは何だろうか。戦争の無い世界を望み、平和を目指すことに吝かではないが、力不足の感は否めない。前線に出ることには慣れたが、円卓にはまだ抵抗があった。ラクスが議長に就任して、直属の特務隊を構成し統率するようなことが無かった訳ではないが、そういう器ではない気が、未だしている。
{何故、僕に?何故、今頃?}
 沈黙の後、それだけ問うた。否、それを問うのが精一杯だった。予想していなかった状況に戸惑い、少し混乱している。
{やっと、扱ぎ付けたのです。今更かも知れませんが、状況が整ったのが今、なのです。そして、私の信頼の置ける方々で文官に最も適していると思われるのが、キラ、貴方なのです}
 何、それ。その意味を呑み込めず、肯定もしたくなくて固まった。
{……いいえ、違いますわね。実際に動く方々と治める者、どちらの意思も酌めるのが貴方だと思うのです。貴方なら、風通しの良い、中立の組織を創って下さるに違いない、と}
 いよいよ訳が分からない。確かに、エターナルの中ではそういう風に仲を取り持つようなことは多々あった。だが、それは気心の知れた人の間だったからで、それは組織というには気が咎めるほどのものでもある。それを、艦隊を組もうかという組織に適用するなんて。
{どうかしてる}
 思わずキーを叩いた。睨みつける画面の先に、軽く消沈して静かに面伏せるラクスを見据えて。
{そうですわね。急にこんなお話……でも、早くお伝えしたかったんです。気付いた時が最善の時、今、しておかないと出来なくなってしまう気がして}
 ぴくり、と体が震えた。何かが引っ掛かった。前にも、何処かで。既視感が纏わり付く。
{考えておいて頂けませんか? 帰っていらしたら、きちんとお話いたしましょう?}
{   そうだね。ここでするような話でもないし}
 胸に蟠る靄は依然表情を曇らせたが、それが消えるのはずっと先になる、そんな予感がした。