18

 夜が過ぎ、朝が来る。
 故郷では意識することなく迎える時の経過を意識する。此処でもそれは流れるように過ぎていた。造られた空に太陽は無い。でもその明るさは確かに朝の光だし、やがて昼になり、夜が来る。見事なまでの模倣は生態系さえ作り出していた。こんな風に植物だって、と腰を下ろした芝を少し毟る。蒼い匂いがした。夜へ傾き始めた空に僅かな風を感じる。
 風? 疑問に感じて目を上げる。
 此処へ来た初日、アエカを呼ばわった男に並んで、人が立っていた。揺れる髪は腰の辺りまであるだろうか、さらりと弾かれた光は青、はっと息を呑む。
「また、お会いしましたね、アエカ様」
「え……あの 」
 名を呼ばれて動揺した。再び会うとは思ってもみなかった人が、自分の名を覚えている。
「こ、この前は、すみませんでした」
 慌てて言葉を繋ぐアエカにくすりと笑って、その人はアエカの右に腰を下ろした。
「僕の名前、覚えてたんですね……」
「印象的でしたから。名前に様で呼ばれる子供なんて、そうは居ませんよ」
 そう言って笑う。アエカは顔を赤くして俯いた。そうだった、確かに不自然で印象に残る呼ばれ方だ、と思う。ちらりと振り返れば、そう呼んだ男は渋い顔をして視線を逸らした。
「月は、どうです? 慣れましたか?」
「はい。あ、いえ! 戸惑うことが多くて……あ」
「やっぱり地球の子なんだ」
 笑われて更に赤面する。月にとって自分は余所者、少し恥ずかしい気がした。
「こちらへはどうして? 旅行か何か?」
 穏やかな笑みを湛える瞳がアエカを見据える。その、僅かに揺れた色が、いつか何かの映像で見たオーロラのようだとアエカは思った。
「いえ、あ、そうなるのかな……宇宙の生活が見てみたくて」
 歯切れ悪く答えて足元を見る。踏まれて倒れても起き上がろうとする芝が靴先を擽っていた。そう、と軽く呟くような声が聞こえる。空の光量が落ち、空調も僅かに弱くなった。黄昏が来る。
「故郷を模倣して生き延びているだけだ」
 思わず顔を上げた。見返したその人の、遠く空の向こうを見るような目で静かに発せられたその言葉は、消え入るように寂しげに響く。
「僕はもっと人工的なのかと思ってました。でも、思ったよりずっと自然で、こうやって触る芝は家のと全然変わらなくて、なんか、凄いなって」
 この世界を快くは思っていないのであろうその人の冷えた雰囲気に、アエカは懸命に弁明するかのように喋った。それでも、その人の瞳からは感情が失せていく。
「人はより良いもの、より優れたものを求めるからな。そうやって進歩を繰り返し、争い、過ちを犯してきた」
 ちくっと痛い気がした。言うなり青い芝を掬い上げ、引き千切り、投げ上げる。その様をアエカは叱られたような気分で見る。
「これだってその結果だ。他者より上へと欲望のままに追求した結果。新たな差別と分裂に対処するための宇宙開発。そうしてまた差別を生んで……何の解決にもなっていない。愚かさの証だ」
 その言葉の意味を把握するのは難しかった。ただ呆然と横顔を見詰める。
「技術力は評価すべきかもしれない。だが、出来るからといって何でも形にして良い訳じゃない。
 ……恩恵を受けておいて言うことじゃない、か。すまない、変なことを言った」
 ふっと表情を緩ませて見返され、アエカは戸惑った。何か言おうとして口を開けてはみたものの、何をどんな風に言ったらいいか迷う。アエカから外されていく哀し気に笑った瞳は、苦しんでいるようにも見えた。大気に存在する物理法則がひやりとした空気を連れて来る。その空気に押されるように、思いが言葉になった。
「難しいことは分かりませんけど……でも、来てみて良かったです。
 ……僕の父は空にいるんです。僕が生まれる前に死んだと聞かされていたし、ずっとそう思ってたんですけど、本当は……本当に、宇宙に居るんじゃないか、て、気になって仕方なかったから。そうだとしたら、どんなところに居るのかな、て。宇宙に居る人も、こんな風に、地球に居る僕と変わらない生活をしてるんだ、て分かって、ちょっと気が晴れました」
 自然、笑顔になって見上げると、戸惑ったような顔で見返された。
「君の父上は、何故?」
「戦争で。そう聞いています。そして、必ず「お前の父は空に居る」って母様は言うんです。だから、本当は、死んでなんかいないんじゃないか、て」
 そうか。空に、ね。そう呟いて寂しげに笑うその瞳が、母様と同じ瞳だ、とぼんやり胸に浮かんでどきりとする。 
 同じ?どうして、そんな事思ったんだろう?
「会いたい?」
 唐突な質問に面食らう。だが、その言葉はアエカの最奥を捉えた。そうか。だから、きっと。
「……はい」
 けれど、自身の心を計り兼ねて俯いた。自然と曇る表情に、隣で息を吐く音がする。その響きは溜息とも苦笑ともつかなかった。その音に身につまされる思いがする。そしてアエカは思った。
 死んだと教えられたのだから、会えるはず、ない――
「知らないほうがいいこともある」
 心の内を言い当てられたようで、驚いて顔を上げる。では、やはり。
「父の遺したものが罪なら、尚更だ。生きる時間が重ならないのなら、その繋がりさえなかったことにして育つ方が幸せだ。
 母上もそう判断されたのだろう。言葉のまま受け取っていたほうがいい、今は」
「今、は?」
 見返した瞳は柔らかく笑った。アエカはそれを肯定と受け取る。キラと同じだ。この人も、今は不可侵だ、と言うのか。
「必要なら、真実を知ることが出来るだろう。君はまだ幼い。母上の下で世界を学ばれるといい」
 苦く歪む表情を、気取られぬように必死に抑える。僅かに眉根が寄った。
 世界―― 。まだその影が見えたばかり。こうして飛び出して、如何に自分が世界を知らないか、知った。解った訳ではない、知っただけ。渋い顔をしながら母が何も言わずに送り出してくれたのは、だからかもしれない。自らがそうであったように、いつか当主となる時のため、見て学べということか。
 ……母様から学べと言った? 母様が世界を知ると? 少なくとも僕よりは大人だから、そういう意味かもしれないけど……もしかして、この人は母様を知っている?一体―― 
「時間だ」
 静かに立ち上がってアエカを見据える。アエカは呆然と見上げた。
「失礼致します、アエカ様。良い旅を」
 弾かれたようにアエカは立ち上がった。既に背を向けて控えていた男に目礼をするその人に、追い縋るように声をかける。
「あ、アエカ・ソラです。あなたは?」
「アスラン だ」
 静かに薙いだ視線は穏やかにアエカを見た。
「また、会えますか?」
「……君が願うなら」
 そう言うと向き直ってゆっくりと歩を進めた。ふわりと青が揺れる。妙な寂しさがアエカを襲った。
 少し、饒舌過ぎたな。
 よく知らない人とこんなに喋ったのは初めてだ……省み悔いながらも、満ちた気持ちに少し笑った。