20

 その部屋は幾重にも壁が立ち並び、光を遮っていた。それは天井までの、正に壁で、中央が通路として切り取られている。それぞれの壁には、ぎっしりと書籍が詰められていた。どれほどの数の蔵書があるのかは知らない。が、少なくとも学校の図書室よりは量も質もあることはアエカにも分かった。
 入り口の扉から最初の書架までは少し距離がある。その書架には絵本や児童書が並び、まだ、もっと小さい頃に、書架の前に座り込んで、母に読み聞かせをしてもらった。よく覚えている。そして、手垢の染みた絵本に、母もまた、そうやって育ったのだろうと思い至って、少し頬が緩んだ。
 しかし今は感傷に浸るのが目的ではない。通路を奥へと進む。壁を見上げ、一つを選び、抜き出す。ぱらぱらとめくっては、唸って元に戻す。何度かその作業を繰り返して、世界を知るとは難しいことだ、と溜息を吐いた。それでも、幾つか選び出した紙片を手に、備え付けられた踏み台に腰掛ける。これまで幾度か見てきたその写真には機械しか写っていない。今まではその機械に怒りに似た恐れを感じていたが、今は何の感情も無かった。貪るように文字を追う。情報が流れ込む。気に留めてこなかった文字が、歴史の一部になりかけた出来事を克明に伝えていた。取り憑かれたように文字を追う。手にした紙片を終えてしまうと、前へ前へと遡った。
「アエカ、いるのか?」
 突然の声にびくりと震える。それは間近で発せられたのではないのに、驚いて紙片を落としてしまう。くすりと笑う声が聞こえた。
「相当、集中してたんだな」
「ごめんなさい。 どうかしたの? 母様」
 やれやれと失笑されて首を傾げる。
「どうかした、はこっちの台詞だ、アエカ。お前を呼びに来た。帰ったらお前が部屋にいないから」
「……そんな時間?!」
 はっとして辺りを見回す。黄昏を越えて薄闇に包まれていた。
「そんな時間だ。……調べ物か?」
 紙片をちらりと見て驚く。僅かに変色した紙片は、アエカがよく手に取るそれより何年か前のものだった。アエカは手早くその紙片を元へ戻す。叱られた気分だった。
「こないだ月へ行って、僕は何も知らない、て分かったんだ。ある人に、『世界を学ぶといい』と言われて、そもそも国のこととか戦争になった訳とか、知らないなって気付いて。それが知りたくて」
 恐る恐る覗いた母の顔は目を瞠っている。だが、すぐに笑った。
「そうだったのか。それで。分かったのか?」
 僅かに唸って首を傾げる。物事の背景を知れば知るほど、疑問も増えた。
「……前よりは、分かった、かな」
「そうか」
 アエカの肩に腕が回される。そっと押されて進んできた通路を戻った。ずっと頭の中に小さく鳴る言葉がアエカの足を鈍らせる。視界に映る母の濃紫の着衣に、母は自分達とは違う次元で世界を見ているのだと、ふと思った。それならば、自分の頭の中で混沌としている疑問の姿も、実は見ているのではないかと閃く。
「母様」
 ん? と振り向くその顔は、モニタの中に見る毅然と勁くあるそれではなかった。少し気を殺がれつつも、アエカは訊ねる。
「どうして人は争いを繰り返すんですか」
「何……」
「父様が死んだ、あの戦争の前のことも読みました。あの戦争も、その前の戦争も、結局理由は同じでしょ? ナチュラルとコーディネイター、違い過ぎるから受け入れがたくて、許せなくて、非道いことをして。痛い思いも悲しい思いもするのに、どうして。……和解したはずではないの?」
 足を止めた母はアエカをしばらく見据えて、目を逸らした。薙いだ視線の意味を見たくてアエカは凝視する。
「“国”という大きな単位では、な。だけど、国など、指導者が変われば政策も変わる。和解など、簡単に無かったことにすることだって出来るんだ。そうでなくても、国の姿勢を善しとしない者がクーデターを起こせば均衡は崩れる。上手く抑え込めればいいが、手に負えなかった時は……あの戦争のようになるんだ。」
 そうだ、そのように書いてあった。ごく一部の人達が憎しみに駆られて破壊行為を行なったのが発端だ、と。でも。
「例えば、アエカ。私が殺されたら、どうする?」
 えっ と思わず声を上げて、固まった。考えてみたことがないわけではない。が、答えは出せずにいた。そういうことが起こると想像することが怖かった。今、それを問われても模範解答は出来ない。言葉は飾られること無く感情のまま発せられた。
「嫌だ。そんなの、嫌だ! 母様が、そんな事……あるわけないっ」
「……確かに、“そんな事”が無いように護られてはいるが。“そんな事”に一番近いことも確かなんだ、アエカ。もしも、そうなったら、どうする」
 視線を落として考える。もし、母様が誰かに殺されたら……
「僕は……母様を殺した人を、殺しに行くかもしれない」
 苦しいほど憎い。多分そうだろうと思う。母がそうなる事も恐ろしいが、それで狂気に墜ちそうな自分も怖かった。
「うん。そうだろう? アエカが殺されれば、私もやはり、アエカを殺した奴を殺したいほど憎むだろう。
 人の思いは、国の和解とは一致しない。国益のために和解したとしても、それで納得してしまえるほど人の命は軽くないんだ」
 視線を落としたまま、僅かに震えを感じながら、その言葉を聴いた。
 ――国家は人だが、人は国家ではない。
 いつか、母がそう教えてくれたことを思い出す。だからこそ、民の声を聞く努力を怠ってはならないのだ、と言った。
「戦争ともなれば、同じ憎しみを持つ者も相当な数になる。その中には力を持つ者もいるだろう。彼らがそれを行動に移したとしたら……本当に殺しに行ってしまったら?」
「……戦争が、続く……」
「うん。憎しみの連鎖が繰り返される。そもそも人は、他よりも上であろうとする。優劣をつけていがみ合う、残念ながらそういうものだ。だから争いは容易に繰り返される」
 他より上――優位であろうとすること。その性質はアエカにも理解できた。
「そう、だね」
「父は私に“戦いの根を学べ”と諭した。私が誰かを討てば、その人の妻は私を憎み、誰かが私を討てば、その人を父は憎むだろう、討ち合っていては何も終わらぬ、そう言った。だけど、討たれれば辛いし仕返しをしたくもなる。……どうすれば争わずに済むか、答えは未だ、分からない」
 並んで俯いた影が急に濃度を増した。灯りが点ったのだ。その影に、ぽつりとアエカは呟いた。
「コーディネイターがナチュラルになればいいんだ」
 はっと顔を上げて見据える母に少し驚く。その瞳は色を失っていく。
「お前……」
「だって、そうでしょ? 戦争がコーディネイターとナチュラルの間で起こるなら、そこに問題があるんだ。なら、コーディネイターがナチュラルに戻ればいい。違いを受け入れられるようになるのを待つより、ずっと簡単じゃないかな。一世のコーディネイターを生み出さなければ、操作しなければ増えないコーディネイターだけの世界なんて成り立たなくなる。……ナチュラルへ回帰していけばいいと思うんだ」
 じっと聞いていた母が、ふと笑う。
「極論だな」
「うん。極論だね……子供っぽいって、今、思った」
「実際、子供だしな」
 見合わせて笑い合った。
「さ、行こう。夕飯の支度をしていたから、あまり遅いとマーナに怒られてしまう」
 笑いながら、その瞳の奥に硬い光が宿るのをアエカは見逃さなかった。同時に、自分の懐疑と曖昧な不安など見透かされているのだろうと感じながら歩を早めた。