26

 その日、アエカはガーディアンエンジェル・地球圏本部にいた。モニタで声明を聞き、応接室の広い窓からアークエンジェルの艦載機が飛び交うのを眺める。
 これまでにもイベントやセレモニーに連れて来られたことはあったが、今回は趣が違う気がした。それは、アエカが成長した、ということかもしれない。酷く実感が無いのに、とても重要な場面に立ち会っている、そんな気がした。虚に囚われながら、世界の在り方が少しだけ変わるのだろう、とぼんやり思う。
 発足宣言を無事に終え、僅かにざわめきだした部屋をふらりと出た。顔を洗いたい気分だった。


 取り敢えず建物の端を目指す。靄のかかった気持ちが足取りを重くさせた。窓が続く通路からは晴天の陽を受ける明るい緑が見える。陽を照り返す緑をぼんやりと眺めながら歩いていたアエカは廊下の終点に突き当たった。あまりにぼんやりして窓の反対側にある手洗いを見過ごしてしまったのだろう、そう自嘲して笑みが漏れる。そのままぐるりと頭を振り廻らして引き返そうとする瞳に、壁の切れ目が映った。それは扉の無い部屋、数組の応接家具を設えた広めの空間は、開放的なガラス張りで見晴らしが良かった。宛ら展望ラウンジといったところなのだろう。こんなところがあるのか、と思うと同時に、そこに青い影を見た。
 心臓が跳ねる。それは痛みにも似た懐かしさ。 ―― あの人、だ。
 今日はその長い髪が軽く結われて、制服の肩を露にしている。青に奪われた目がそれに気付くのに時間はかからなかった。
 紫……!
 その人に気付いた時は声をかけるつもりでいた。だが、その制服の色が目に留まるや、驚愕と躊躇に足が竦む。声をかけようか、かけまいか、逡巡していると青い髪が揺れて振り返った。
「これは! ……アエカ様、お久し振りです」
 立ち上がって会釈をする穏やかな笑みは、月で見たそれだった。ただ、その制服がアエカを萎縮させる。
「こんにちは。……軍の、方だったんですね」
 硬い表情で会釈をして、アエカは怯えるように見上げた。その人は憂うように苦笑して肩を落とす。
「ええ。残念ながら」
「残念……?」
「アエカ様を怖がらせているようなので。挨拶は頂きましたが近づいては下さらない」
 ああ、とアエカは少し慌てた声を上げてその部屋に足を踏み入れる。
「驚いてしまっただけです。アスランさん、優しい方なのに」
 手を伸ばせば届く程まで近づいて少し笑う。つられるようにアスランも笑った。
「軍属とは思われませんでしたか。優しくても軍事組織の頂点に立つ者だっていますよ、キラのように」
「……そうですね。失礼しました」
 どこかで、もしかしたら、とは思っていた。でも、向けられるその眼差しからそういった経歴はアエカには想像できなかった。月に居て、母を良く知っているなんて、三隻同盟にいた人くらいだ。そうなれば当然軍属なのだろう。
 キラだって軍属なんだ……。
 想像できないから、と否定してしまっていた自分をアエカは恥じた。
「しかし、ここでお会いできるとは思いませんでした。アエカ様は式典に参加されたのですか?」
 不意を衝く問いに思考を中断して顔を上げる。
「いえ、僕は今日は、技術部の人たちとモニタで。アスランさんも、此処にいらっしゃるってことは、式典には行かれなかったんですね?」
「ええ。私は招待されるような立場には居ませんから」
 僅かに冷徹な光を宿した、笑みの形を保つその顔を不思議そうに見返した。
「え、じゃぁ、何故こちらに? それも、その、制服……」
「ガーディアンエンジェルは、各国に部隊を派遣してもらう形で構成されています。ですから、うまく折り合いを付けられるように調整をしてきました。今日は総仕上げ、とでもいったところでしょうか」
 ああ、と返事はしたものの、腑に落ちない様子のアエカに、アスランは苦笑する。
「アエカ様こそ、こんな所にいらっしゃって宜しいのですか? お一人で出歩かれると、また護衛の方が叱責を受けるのでは?」
 しまった! という顔をして、ちらりと後ろを振り返ったアエカに、アスランは思わず噴出してしまう。俯いて、一瞬恨めしそうな目でアスランを見返したアエカはぽつりと呟いた。
「その……、様、というの、止めていただけませんか」
「え?」
「確かにアエカ様と呼ばれることもありますけど……好きじゃないんです、そういうの」
 ふ、と笑みの混じる溜息を吐いて、アスランはその子を愛しそうに眺める。
「それは、出来ません」
「どうしてですか? 僕、何の地位も無い子供ですよ?」
 怪訝そうに見上げて体全体で不服を表した。そこにその母を見るようで、懐かしい思いに頬が緩む。が、瞬時に笑みを引いて答えた。
「地位は無くても。その血が、敬われるに値するものだからですよ、アエカ・ソラ・アスハ」
 びく、と背筋を強張らせて驚愕の表情をする。
「……僕、 ファミリーネームは言ってない筈です、けど」
「金の髪に暁の瞳、名はアエカ。その上“様”と呼ばれるのであれば、アスハであることくらい、世界情勢に通じる者なら誰にでも分かります」
 毅然と言い放って、やや冷えた瞳でその子供を見た。愕然とした様子で立ち尽くす、アスハの子。
「あなたがアスハである以上、相応の敬意を払います。私はこのような立場ですし、それはしなくてはならないことです」
「じゃぁ! じゃぁ、どうしたら、“アエカ”と呼んでもらえますか?!」
 不満を抑えつつぶつけてくる気の強い声。有無を言わさぬ覇気。
「……そうですね。もっと親しくなったら。アエカ様のことを個人的にもっとよく知るようになったら、そう呼ばせて頂くかもしれません」
 じっと睨むような目付きで見上げてくるアエカに、アスランは失笑した。
「その眼。本当に、母上によく似ていらっしゃる。どうしてそんなに“アエカ様”と呼ばれるのを厭うのですか」
「それは……!」
 ふ、と覇気が緩む。どうして? それは常には訊かれず、明らかにすることのない思考。普段、甘んじて受け入れている分、その思考の輪郭はぼやけていた。アエカは視線を下げて答える。
「僕は……僕もあなたも同じ人間です。寧ろ、僕の方が未熟で……。だから、そんな、“様”なんて呼ばれ方、したくない」
 アスランは一瞬息を呑んで、困ったように笑った。
「謙虚な方だ。だが、あなたにはアスハの子という立場がある。そして、私は異国の者。……分かりますね?」
 優しい笑みがアエカの瞳には恨めしく映る。確かにアスランの言う通りなのだ。いつもなら何の抵抗もなく受け入れられる現実。それを、こうまで拒否して打ち崩したくなる何かを、彼に感じた。アエカは、薄っすらとそう自覚する。
 頷くように頭を下げた。哀しみにも似た、その薄い自覚の重さに耐えられぬかのように。
「失礼いたします。ご歓談中、申し訳ありません」
 背後からの声に驚いて振り返る。それはアエカの護衛ではなく、ガーディアンエンジェルの制服を着た、先立って応接室でモニタや音響の準備をしていた者だった。アエカに気付いて驚いたようだが、軽く会釈をして視線を先へ向けてしまった。
「お待たせいたしました、ザラ委員長。準備が整いましたのでご案内致します」
「……私は治安維持担当大使として来た筈ですが? それに、未だ委員長ではありませんよ」
 余裕さえ感じられるその声音と表情。アエカは思わずアスランを見上げた。
「内定しているのなら同じことです。その未来はすぐそこですよ」
 失笑とも取れる笑みで溜息を隠したアスラン。その、アエカから外された視線に心がざわめく。
 今、なんて?
「では、アエカ様。私はこれで失礼致します」
 戻ってきた視線は淋しげに揺れていた。見透かされた心がそこに映るようで、どきりとする。
 そ、と差し出された手。その意味を取り損ねて戸惑っていると、静かに右手を掬われた。その少し硬い感触はキラのそれに似ていた。握り返すことも忘れて呆然と見上げた瞳がくすりと笑う。ぐっと握られてはっとした。
「こういう場面にも、対応の仕方にも、慣れておかなくてはいけませんよ、アエカ様?」
「!   ……はい」
 現実を突きつけられて極まり悪く眼を逸らす。課せられた名に今は抗いようもなく、名に付随する責務を学ぶしかない。
「お元気で」
 呟くように告げられたそれは永い別れの言葉。離された手が宙で戸惑った。通り越してゆくその人の、その言葉の意図を推測して、追い縋るように振り返る。
「じきに代表がお迎えにいらっしゃいます。アエカ様は応接室へ……お一人で大丈夫ですか?」
「はい。 一人で戻れます」
 法衣に似た制服が大きく頷いた。真っ直ぐ見据えた二人の大人に、住む世界が違うと、未だ辿り着けない距離があると感じて、知らず奥歯を噛みしめる。
「しかし、賓客の応対とは。流石と言うべきでしょうか」
「ええ。未だ十にも満たないとは思えません。流石はアスハの子」
「代表にお伝えしましょう。きっとお喜びになる」
「やめてください!」
 咄嗟に叫んだアエカに大人たちは驚いて目を見開いた。
「一人で出歩いたこと、またキラに叱られてしまいます」
 得心したように微笑んで軽く頷く白い制服。意外だと言うように見据えてくる紫の制服。
「君も、キラが怖い?」
「はい。この間は5時間みっちりお説教されました」
 くすりと笑った。
「俺も、キラは怖い。……この事は内密に」
 悪戯な少年のようにアエカに含み笑いをして目配せすると、向き直る。白い制服はもう一度頷いた。そうして一礼すると、廊下へ歩み出す。二人は、もう振り返ることはなかった。
 アエカは放心して立ち尽くす。離れていく背中は何故か慕わしく、開く距離に手を伸ばしかけて拳を握った。その寂寞が胸を刺す。窓の向こうに、明るい緑がゆれていた。