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 どうやって戻って、どうやって帰ったのか、覚えていない。多分、来た通りに廊下を戻って、母と一緒に帰ってきたのだろう。気付いたら自室で考え込んでいる、いつものパターンだ。
 疾うに日は落ちて薄暗い。母は出掛けてしまった。今頃はミナやラクスと、式典に招いた各国代表との会食に参加しているはずだ。表向きはガーディアンエンジェル、つまりキラが主催となっているが、何分此処がオーブで、肉親ともなれば、母はホスト同然に対応しているだろう。もちろん、前面には出ない形で。
 時に寂しく感じるそういう現実は、今日のアエカには寧ろ有難かった。隠しておきたい先刻の出来事を、今は隠し遂せる自信が無い。様子がおかしいと、何があったかと問い詰められてしまうだろう。心は此処に無い。あの響きがアエカの心を捕らえて放さない。それは思考を翻弄する。驚きでもあり、衝撃でもある、気付けなかった事実。
 ―― ザラ 委員長 
 そう言っていた。その文節は幾度も目にした。この時代を学んだ中にそれは含まれていた。だがその名は、委員長より議長の呼称の方が印象が強い。強硬路線を布き、世界を戦乱に陥れ、多くの命を奪った人。俗に戦犯と呼ばれる。その容貌さえ恐ろしく感じていた。
 その人と、同じ、名前――
 ファミリーネームは訊いていなかった。アエカ自身、それを告げなかったし、別段気にも留めていなかった。けれども。
 まさか、その名を聞こうとは。
 いくらその罪が個人に帰属するとしても、その名を負って生きることは容易ではない筈だ。便宜上、新たな名を与えられていてもおかしくない。寧ろその方が自然だ。それに。
 その血縁が、同じ職を得ることなど、あっていいのだろうか。
 僕なら、そんなの許せない。同じ轍を踏むことがあったらどうするんだろう?小さく胸に呟いて、ラクスを思った。この人事を知らない筈はない。何故ラクスはそれを認めたのだろう。あの人のことだ、押し切られることなど恐らく無い。言い包められて判断を誤るほど弱くもない。赦したのか、個人としての機会を与えたのか。いずれにしても自分の中には無い選択肢に、思いは揺れた。
 それとも、何か……ラクスは何か企んでいるのだろうか。その企ての中に彼は組み込まれていて、その立場に立たざるを得ないのだろうか。
 逡巡を繰り返して溜息を吐く。メビウスの輪の中に答えはない。答えを得ようとすることそのものが、無謀なのかもしれない。
 自分が知っているその人のことを整理してみる。
 月に行った時、月で会った人。どこに住んでいるかは聞かなかった。でも、地球の人ではない。宇宙で生活するための技術の恩恵を受けていると言っていた。“アエカ様”と呼ぶ割には気さくに話しかけてくれる人。優しい眼、穏やかな口調、ずっと前から知っていたような温度。僕に足りないところ、すべきことを指摘してくれた人。だからかな、とても親近感を感じる。だけど、軍の人だった。それもずっと上層の、僕にはとても遠い人。戦争を学んだ後では尚遠く、恐ろしい気さえする。遠いけれど、母様を知っていて、キラも知っている。そうなればラクスを知らない訳はない。本当はとても近いのかもしれない。得体が知れない……
 待て よ?
 母様は、自ら戦場に出て戦ったと聞いた。そういう制服を着ることがあるのも知っている。そういえばその乗機に乗せてもらったことがあった。あの時は母様が一緒に乗せてくれることが嬉しくて浮かれていて、何を考えることもなかったけれど。そうやって指揮を執ったりしてきたんだ……
 僕 も?軍の中に居場所ができるんだろうか。だから、乗せてくれたんだろうか。いつか来る、その時のために。
 そうだとしたら。
 考えてみたら、僕に近い人は皆、軍に関係がある。僕もきっと、そうなるんだ。
 これも、気付けなかった事実。衝撃的だった、あまりにも近い、自分と軍の距離。理解を超えて混乱してしまったその人の地位、それよりも上に自分は立たねばならないのかもしれない。
 “血”のせいで。
 頭の中にあの人の声が響く。
 ―― その血が、敬われるに値するものだからですよ、アエカ・ソラ・アスハ。 ――
 そういうこと。
 この血を引くが故に、その名を負うが故に、いずれ大きな責任を負わされるということ。己の身の振り方が国を動かすかもしれないということ。好むと好まざるとに関わらず、向き不向きに関わらず、果たさなければならない責務として、それは定められていて。だから、良い物を与えられ、護られ、特別な教育を受けて、国の行事に出席することもある。
 そこから逃げる方法を、今は死しか知らず。
 その、自らに課せられたあまりに大きな責務に気付いて愕然とする。そうなんだ。そういうことなんだ。母様が代表を務めている以上、僕にはその子として期待される振る舞いがあり、その期待に沿って生きることを無言のうちに要求されているのだ。それができている間は大仰な敬称を付けて呼ばれる。それはご褒美のようなもの。そして、そこから外れるな、という枷。
 馬鹿みたい。そんなもの、意味ないのに。 ―― 欲しくないのに。
 皆、僕の未来を見据えてたんだ。いつか、この家を継いで、母様のように国に尽くせ、と。僕から自由を奪うから、大事にされている。未来を買われる代償が、それ。
 ―― よく。 よく、分かりました、アスラン・ザラ 委員長。僕の血が、敬われるに値すると言われた意味が。
 どんな感情も感じない。ただ、漠然とした不安と圧し掛かるような諦めがアエカを満たす。ぽつ、と手の甲に水の感触を感じて目を落とす。感じ取ることさえ難しい感情の発露。それは少し冷たかった。
 ―― 次は、あなたがその名を名乗る意味を、その理由を教えてください。
 祈るように胸中に呟いて目を閉じる。また一つ、冷たい涙が落ちた。