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 夜闇の沈黙。邸そのものが眠ったような澱んだ静けさの中、一角に四角い明かりが点る。それは一瞬白く光って着信を知らせた。重い瞼を持ち上げて気だるそうに姿勢を戻したカガリは意識の外で回線を開いた。
{やぁ。元気?}
 飛び込んできたのは文字。ぼんやりと見つめて意識を呼び戻す。
{ねぇ、起きてる?}
{ごめん。ちょっと寝てた}
 呆れて溜息を吐くキラの顔が想像できた。覚醒したらしい。
{無理もないけどね、こんな時間だから}
{こんな時間しか空かないのだから仕方ない}
 少し笑った。こんな風にやり取りするのは何度目か。一度、素案を審議している時に割り込まれて叱り飛ばし、以来、遅くに会話するようになった弟は、彼女の支えになりつつあった。
{それで?今日はどんな怪しい回線を使ってるんだ?}
{酷いな。万全を期している、と言って欲しいね、姫君のために}
{姫は止めろ}
{はいはい(笑}
 映し出される文字にくすりと笑った。ただの無機質な文字が温かい。
{条約の方はどう? うまくいってる?}
{まぁまぁだな。大筋で合意、てところだ。調整はこれからだが、この分ならそうはかからないだろう。……そっちはもう纏まっているんだよな}
{そうだね}
{やっぱりラクスは凄いな。この短期間に纏め上げるなんて。私は}
 言葉に詰まって手が止まる。蟠る感覚を的確に表す言葉が見付からない。僅かに躊躇してそのまま送信した。
{比べちゃ駄目だよ。風土が違うんだから。地球には異国という概念があるけど、こちらにはそれが無い。もともと一括りみたいなものなんだから、まとまり易い筈だよ。比べても意味ないでしょ?カガリはよくやっているよ}
 少し考えた風な慰めに笑みが零れた。それが事実ではなくても、今はその気持ちが有難い。
{そうだな。ありがとう}
{それで。体調はどう?}
 ぴくりと体が震える。ホームポジションで指が戸惑った。何を訊かれているか知っていてその答えを躊躇してしまうのは、正しい事だと思っていないからだ。後ろめたさは否めなかった。
{どうって。相変わらずだ}
{お腹の子も?}
 始めからそれを訊かれていると分っていてもどきりとする。
{ああ……多分}
{多分って}
 ただの文字でしかないのに、責められているような気分になってカガリは俯いた。止まった文字の流れが痛い。
{もしかして、診てもらってないの?}
 こういう時のキラの穏やかさは怖い。憂うような顔で非難する様子が容易に思い出されて硬直する。蛇に睨まれた蛙はこんな気分なのかもしれない。
{そうなんだね? じゃぁ、誰にも言ってないの?}
{敵を欺くなら身内から、て言うだろ?}
{そうだけど}
{今は事を荒立てたくない。余計なことを言われたくないんだ、せめて条約を結んでしまうまでは}
 硬く掌を握りこんだ。決意を逃さないように。
{天に任せるって、 そういうこと、だったの}
{うん。そういうことだ。条約締結までこぎつけて、生きていたら診てもらおうと思っている。賭けてみたんだ。……命でそんなこと、どうかとは思うけど}
 震える手を胸の前で握り合わせた。力を込めても震えが止まらないのは、そういう現実を迎えるのが怖いからか。自分の愚かしさが恐ろしいからか。
{いいんじゃない? 自分の勝手で消そうと思わなかっただけマシだと思うよ}
 用意していたような文章と速さ。カガリは失笑した。
{あんなに非難したくせに}
{非難されるようなことしたんじゃない。それに……頭にきてたんだ。許せない、って}
{ごめん}
{違うよ、カガリ。僕はアスランが許せない、って言ってるんだ}
 思わず、え、と呟く。考えてもみなかった感情に接してカガリは戸惑った。でもそれは違う、と書き掛けて上がってきた一文に遮られる。
{……この話は今度にしよう。カガリはもう休まなくちゃ。次の休暇には母さんのところへ帰るから、その時にでも会えないかな}
 何となくはぐらかされた気分になったが、会えないか、と言われて心臓が一つ跳ねた。
{本当か? 日程送ってくれ。調整するから}
{うん。後で送っておくよ}
 心なしか、どちらの文章もふわりと嬉しそうに感じる。画面の向こうを思って笑った。
{それじゃ、おやすみ、カガリ。ちゃんと休むんだよ?}
{分ってるよ。言われなくたってちゃんと休むさ}
 カガリの膨れっ面は伝わるだろう。キラの溜息交じりの笑い声を聞いた気がした。
{おやすみ。またね}
{おやすみ。また今度}
 くすりと物憂げに笑って全てを閉じる。邸は深い闇を迎えて眠りに落ちた。