30

 空の藍はまだ薄く、青く辺りを染めている。作業をするには暗いが、そうでないなら黄昏を楽しむのも一興と思えた。窓辺の椅子にゆったりと腰を掛け、まだ明かりが要らないうちに帰って来られたのはどれくらいぶりだろう。そう胸に呟いてカガリは軽く溜息を吐いた。
「母様」
 不意に呼ばれて目を上げる。確かにアエカの声がした。けれど、視界に入ってきたのは青い少年、その真剣な眼差しが真っ直ぐにこちらを見据えている。
「!」
 心臓が跳ねて一瞬止まった。
 大きな窓は、大気に薄められた宇宙の色を室内に流し込んでいる。素直な未だ細い髪はその薄藍に染まって青く輝く。真摯な瞳は宇宙を映して不思議な色をしていた。
「ア……」
 少年は少し退いて視線を下げる。薄藍に金が光った。
「ごめんなさい、驚かせてしまいましたか?」
「いや…… 」
 呆然とアエカを見返した、そして、ふ と笑う。
「……いつの間に、こんなに大きくなったんだろうな」
「え?……背は伸びてないですよ?」
 これには失笑した。
「そういう意味じゃない。こんなに小さかったのに、生意気な貌をするようになったな、と。……要するに、ちょっと寂しい、て意味だ」
 そう言って赤子を抱く仕草をしてみせると、アエカは不満げに顔を歪める。それに明るく笑ってカガリは目を落とした。
 ……なんて、こと。
 成長と共に徐々に薄れていくものだと思っていた。それはアエカの個性になってゆくのだ、と。共に生活している訳ではないのだ、似たくても似ようが無い、そう高を括っていた。だが。
 その仕草、その笑顔の端に見え隠れする影。もう、名を呼び起こすことすらしない、その。
 彼は願ったとおりの子だった。髪も瞳もカガリの色、声質も低く落ち着いていて、カガリに良く似ていた。だから、そっくりに思えたその容貌さえ、カガリに似て、そしてアエカになって行くと思っていた。単独では思い起こすことさえ困難になったその面影を、こんなにあっさりと、一瞬で連れてこようとは。
 大いなる誤算に震える。
「母様。僕、卒業しようと思います」
 俄かには理解できず固まった。どういう心境の変化だろう、卒業を酷く嫌がっているように見えたのに。
「先生もそう仰っていたし、拒否することもないかな、と思い直して」
「……ああ……そうだな。後はお前の気持ちの問題だ。納得できるのなら、そうするといい」
 戸惑いながらそう言って目を向けると、安堵したような顔でアエカは笑った。
「それで」
 急に顔を引き締めてアエカはカガリを見詰める。
「学校に通うのを止めたいんです。母様のように、 ……いけませんか」
 それは反抗ともいうべき暴挙に思えた。目を見開き、カガリはじっとアエカを見る。その揺らがない視線に強い意思を見た。もう既に心に決めているのだろう。だが。
「アエカ。お前が学校に通っている理由を、覚えているか?」
 ふ、と視線が逸れる。覚えてはいるようだ。
「お前はアスハだ。いずれ私の跡を継ぎ、アスハ家当主となって国政に大きく関わるだろう。国を動かす者が、その国の人々の暮らしを知らないでどうする。一人で、この家の中で、切り絶たれていては分からない。私はそう感じたから、お前を学校へ通わせた んだ」
 逸れた視線は帰ってこない。理解した上で、敢えて願っていることを示唆している。軽く溜息を吐いた。
「まぁ、それも建前、だったりするんだけどな」
 言ってカガリはくすりと笑う。アエカは驚いたように目を上げた。
「正直なところ、お前にアスハを継がせようと本気で思っているわけではないんだ。成り行きでそうなるかもしれない、とは思う。でも、お前はセイランでもあるわけだし……まぁ、今は無い家だけどな。それを興すのもいいだろうし、氏族を捨てるのもいいだろう。お前の人生だ、心のままに生きると良い」
 ぽかん、とアエカはカガリを見返す。意外な言葉だったに違いない。
「だから、お前がアスハではなく、ただ人として社会に出ることを考えたら、学校には通っておくべきだと、集団という単位を学んでおくべきだと思ったんだ」
「そう、だったんですか……」
 思案するような仕草で目を下げる。そして、少し首を傾げた。
「セイランだから?……宇宙の子だから、じゃなくて?」
「宇宙、て……」
 突然の暴露に狼狽する。まじまじとその子供を見た。
 キラの言っていた、“気付いていた何か”てこれの事か?宇宙を見てみたい、てそういうことだったのか?
 それはつまり、ユウナが父ではないと知っているということ。
「だから僕は、ソラなのでしょう?」
「お前!……」
 カガリは思わず立ち上がり、焦点のぶれた瞳でアエカを見下ろした。問うた視線が真っ直ぐ付いてきてカガリを糾弾する。視界がぐらぐらと揺れて思わず元の椅子に腰を落とした。アエカはふと笑う。
「やっぱり。あ、でも大丈夫です。他所で言ってはいけないのは分かっています。別に母様を責める気もありませんし。
 寧ろ僕は、気付くことができて良かった。……これで僕は未来を受け入れることができる」
 未だ笑んでいるその子供を凝視した。
「お前、何を言って ?」
「分かったんです、僕。期待されている未来があるって。そして、そのために大事にされてる。だけど、僕がセイランなら、それを放り出すことができる。それはセイランに期待されているのではないのだから。でも。
 父様は生きてる。僕はセイランではない。そして今知ることが出来るのはそれだけ。それなら、僕はアスハなんだ」
 そうして子供の瞳は勁い光を孕む。
「僕はアスハを継ぎます。だから、学校の勉強じゃなく、氏族の子息として学ぶべきことを学んでいきたい」
「……笑えない冗談だな」
 軽く鼻を鳴らして視線を下げた。苦く歪む表情を気取られぬようにカガリは横向く。それが母のはぐらかす時の態度だと知っているから、アエカはそれを見逃せなかった。こういう時は決まって答えが出ない。アエカは我知らず一歩踏み込んだ。
「冗談を言っているつもりはありません。僕は正当な後継者の筈です。なら、それは必要なことでしょう?」
「それは……そうだが」
 苦い表情のまま、カガリはアエカを見返す。未だ真っ直ぐに注がれている視線は答えを求めていた。その妥協を許さない瞳にカガリははっきりと答えを提示することが出来ない。求められた答えは一つ。肯定と許可だ。だが、自身を振り返って、その自由な時間と学んだ知識と習得した技術が、家出のようにして放浪する切欠になったことは否めない。アエカが宇宙に焦がれる者であれば、本人の意思とはいえ、それを与えるのは良策かどうか迷うところだった。
「母様。僕は母様を助けたいんです」
 押し殺したような静かな声が響く。それで停滞する思考から引き戻された。
「母様には在るべき支えが無い。どういう経緯で父様が傍に居ないのか僕は知らないけれど、ずっと一人で僕を育てながら重責を担っている」
「本当に独りだったわけじゃない。ミナは信頼のおける統治者だし、お前のことに関しては、家の者はもちろん、キラやラクスが相談に乗ってくれて手も貸してくれる。支えなら充分にある」
 いつでも誰かが側に居て、必要なこともそれ以上のものも備えられているのは自身がよく知っている。自分の存在に関してはそうだ。では母の必要に関してはどうなのか。 「そう。そうなのかもしれない。でも、僕は気付いたんだ。母様が軍を統帥しているのなら、僕の近しい人が皆、軍に関係しているのなら、僕もそこに居場所ができるんだろう、て。母様がそうだったように、僕もそこに馴染んでいく。そして、それは僕に期待されていることなんだと思う。そうやって母様の責務を僕が少しずつ担えるようになって、いつか一人でできるようになって、一緒に立つことが出来たら……僕も、多分皆もそれを望んでいる。そういう風になりたいんだ。学校を卒業できるんだから、これは良い機会なんじゃないかな」
「でも、お前は未だ小さい」
「さっき、大きくなったと言ったばかりだよ」
 そして、にやりと笑って、そういう意味じゃないのは分かってますけど、と付け加える。カガリは失笑した。
 アエカの言っている事は真実その通りだ。いずれその様にしていかなければならない。そのうち、とは思っていた。実を言うと、入学したら、十になったら、卒業したら、と先延ばししていた。本当にアエカをアスハの当主に据える事を否定的に考えていたのかもしれない。その当の本人に、それは今為すべき事なのだと諭される。
「……刻限は、来た、か」
 もう言い訳も先送りも出来ない。闇に変わる空に呟いた。