33

 深夜。私室へ戻るとぼんやりとした頭が疲労を訴えた。今朝一番で、シンの大声によってもたらされたあの情報がずっと気持ちを昂ぶらせている。シンにはなんでもないように気持ちを切り替えた風を装ったが、時折様子を窺うようにこちらに翳った視線をよこしていたから、それは自分が思うほどには上手くいっていなかったのだろう。キラは深く溜息を吐いた。
 関係がないといえば、ない。自分は超国家機関に所属する者となったのだから。職務上、顔を合せることもあるだろうが、もう同じ組織の人間ではない。その人事をどうこう言う資格はないんだろう。だけど。
 納得いかない。
 その要職を任されたということは、ずっとラクスの傍に、文字通り傍でなくてもその意思に寄り添うようにして行動していたことを示唆していないだろうか。それに気付かずに、ラクスと共に歩んできたと思っていた。戦後の処理も、新しい体制も、みんな二人でやってきたと感じていた。
 ――一人、二人で出来ることじゃないのにな。
 ふとそう思って、苦く笑う。同じ目標を持って、同じところを目指して、事を成し遂げていこうと努力するうちに周囲を度外視していたのだ。協力がなければ、支持がなければ成し遂げられるものではない、その一歩だって進みはしないのに、いつの間にかラクスより他は霞んで二人でそれを推し進めている気になっていた。だから気付けなかった。舞台裏で手を回す、或いは手を下す誰かが必要で、それが淡々と確実に為されているからこそ、全てがうまく進んでいるということに。
 ――アスラン、君、
 かた、と音がする。次いで扉を軽く叩く音がした。思わず身構えて扉の外に意識を集中する。
「キラ? いらっしゃいますか?」
 明るく柔らかい声がした。聞き慣れた彼女の声に軽く息を吐き、緊張を解く。僅かに眉根を寄せた。
「ラクス……どうしたの」
 扉に歩み寄りながら問うと、ほ、と安堵の息を吐く気配がする。
「少し、お話できませんか?」
 いつもと変わらぬ様子で言葉を繋ぐラクスに苦いものを感じながら細く扉を開いた。
「……うん」
 はっと見開かれた瞳に気遣わしげな色が見える。眉根を寄せたまま、苦味を滲ませたままの顔でその視線を受け止めた。
「まあ! キラ、具合でも悪いのですか? お顔の色が」
 頬に向かって差し伸べられた手を静かに取って握る。少しも笑える気がしないが、微笑んでみせた。
「そんなことないよ。それより……入る?」
「ええ、ありがとう」
 ラクスを招き入れて後ろ手で扉を閉める。錠を掛ける音に紛らして、気取られぬように溜息を吐いた。
「こんな夜中に……何を、話したいの?」
 極力柔らかく、穏やかに聞く。話したいことなんて、きっとあのことに決まっているのに。胸に闇が蟠った。
「……多分、キラと同じことですわ」
「そう」
 溜息と一緒に腰を下ろす。ローテーブルを挟んで向かい合う形でラクスも座った。
「驚いたよ本当に。朝からシンが喚きたてるし。“なんですか、この人事は!”なんて聞かれても、僕に分かる訳ないのに」
 ちらりとラクスを見れば、色のない顔で俯いている。
「……君の傍に居たんだね、彼 。……アスラン」
「はい」
 一瞬目を伏せてラクスはいつもの笑顔に戻った。その仕草を、今日は快く受け止められない。
「どうして……、アスランが君の近くにいるの? 何故、あの立場に?」
「では、誰なら良かったのですか?」
 この微妙にずれた返答に、いつもなら気が殺がれてしまうのだが、今回はそういう訳にはいかなかった。
「そうじゃなくて。ずっと居なかったじゃない、アスランは。それなのに、急に現れて“ここに居ました”って言われても、僕は納得できない」
 こんなこと初めてなんじゃないかというくらい厳しい表情でラクスを睨む。ラクスの表情が悲しそうに揺らいだ。
「彼には……やらなければならないことがありましたから」
「やらなければ、ならないこと?」
 怪訝な眼を向けると、ラクスは悲しそうな顔のままキラに微笑む。
「ええ。彼にしかできない……アスランだからこそ意味を成すこと、ですわ。」
「何、それ」
 また、この感覚……。こんなに近くに居るのに、酷く遠い。切り離されたような疎外感が思考を黒く染めた。
「アスランはあの日、ザラ派の残党を片付けたいと仰いました。今度の戦争は彼らが引き起こしたものだから、と。
 実際に行動したのは一握りの人達、あの思想に染まっている人間は未だ居る筈だと言って、それを正したいと真剣に願っておられました。お父様の採った道は間違っていた。ザラを名乗る者としてその名に集う者にそれを徹底させる、それが先の戦争を 終わらせることになると、どうにかしてそれを成し遂げたいと言って、私のところへいらしたのです。
 私も、その方達のことは放っておいてはならないと思っていましたし、いずれ行動する予定でした。それなら、それは当主である方の方が適任ですから、アスランにお任せしたのですわ」
 ラクスの意思でもあり、アスランの意思でもあった、互いに同じところを目指していたということか。胸の闇が頭を擡げる。
「それで、君の近くに?」
「ええ。それは私の意向でもありましたし。……事が事でしたので、全てを極秘に処理して頂きました。ですから、キラにさえ居ないように見えましたでしょう?」
 それは恐らく真実だろう。自分が推測したことと大差ないそれに胸の内の闇がうねった。
「うん、本当にね。それで……それは片が付いたんだね? だから、アスランは」
「ええ。戻ってきて、頂きました」
 ふわり と笑ったラクスに訳も無く苛立つ。自然、語調がきつくなった。
「でも! だからってあの地位は……! 彼のあの名前でそれは……。君だって彼が別の名前を貰ってたことは知ってるじゃない。それがどういうことか、解っているよね?」
「ええ。解っています」
 ラクスの瞳は真っ直ぐキラを見据える。
「ですが、もう……いいえ、彼が再びアスラン・ザラを名乗った時から、そこからは逃れられない、それは越えていかねばならない事柄だったのです。これまで逃げも隠れもしてきたのですから、そろそろ正面から向き合って頂かなくては」
 キラは息を呑んだ。時折、ラクスはアスランに厳しいと感じていた。それは自分が嫌うものに対する批判のような、非難めいた雰囲気を持っている。まるで身内に対するかのように遠慮が無く、厳格で、毅然としたものだ。昔と少しも変わらないその態度を目の当たりにして、胸の闇が萎んでいく。
「折角頂いた名前を無碍に捨て、自らザラに戻ったのですから、責任は負って頂きます。その名が持つ運命を知らずにそうしたのだとしても、それはザラの子息として、既に当主でもあるアスランが当然担うべきものです。
 確かに、ザラを名乗って国防委員長に就くのは、風当たりが強いでしょう。非難も批判も覚悟しなければなりませんわ」
 妙に冷めた瞳にぞくりとする。あんなに近くに置きながら嫌っているのだろうか。
「ラクス、君だって責任を問われるんだよ? 君が、彼を委員長にしたんだから。君も非難されてしまう」
「そうですわね。でも、私の立場は私のためにあるのではないのです。私を支えて下さっている方々のためにあるのですわ。その方々のために働くことを、自分が非難されるからといって厭う訳には参りません」
 感じている隔たりは多分ここにある。見ている世界の違い、その視野の広さ、そうして背負っているものの重さ。
 微笑んでいながら真摯な光を放つその瞳に圧倒的な自分との格差を感じた。ラクスは続ける。
「アスランが願ったことを一番効率よく進められるのが、その立場だと思うのです。過ちを正すことも、印象の払拭も、その影響力を以ってすれば速いはず。そして、正当な評価を得て頂きたい」
 そうだ、彼は彼自身に対する評価を失っている。その父の評価をそのまま投影されているのだ。
「ちょっと待って、ラクス。アスランは評価も願ったの? そんなおこがましい」
「いいえ、評価は私が願っているのです。彼の思考はそれを願えるほど柔軟ではありませんもの。だからこそ近くで見守っていなければ、行き過ぎてやりすぎて、全てが駄目になってしまう。便宜上、居ないことになっていることさえ忘れて、馴染みすぎて表に出ることを忘れる、そういう方ですわ。でも、それでは困るのです。それではカガリさんに顔向けができません」
「え?! なんで、カガリ?」
 思わぬ名に驚いて声を上げた。ラクスはくすりと笑う。
「私は、アスランをカガリさんからお預かりしていると考えています」
 それはキラにとって意外な言葉だった。アスランは自分の意思で本国に戻ったはずだ。そうして望んだのは生家の名を掲げる派閥の思想を改めること。確かにそれは必要なことだったろう。だけどそれがカガリと何の関係があるのか。
「彼は、望むならオーブに留まることができました。それでも戻ってきたのは、カガリさんが為すべきことを優先したからですわ。彼女がアスハ家の当主として、”アスハ”を名乗るということがどういうことか示されたから、アスランもザラの名を選んで生きる意味を考えたのでしょう。そしてその責任を果たされた。アスランもカガリさんも、望んだのはそこまでです。それもありなのでしょうけれど、それでは哀しい。互いに掛替えの無い存在なのですから、できるだけ早く、アスランはカガリさんの許へ帰して差し上げたい。ですから表に来て頂かなければなりませんでしたし、一角の人物と評されるくらいになって頂かなければ」
 にこやかに笑うラクスの厳しい言葉にキラは苦笑した。
「一角の人物って……厳しいね。カガリは、周りの評価とか気にしないと思うけど」
「だからこそ、ですわ」
 きり と表情を引き締めて僅かに身を乗り出す。そんなラクスに気圧されてキラは笑みを引いた。
「相手は国家元首なのですよ? 本人が気にしなくても、それなりの人物でなくては周りに押し潰されてしまいますわ」
 ああ、と軽く溜息を吐く。気安いから失念してしまうが、錚々たる顔触れの中にカガリはいるのだ。
「そうでなくても、風土が彼を受け入れないかもしれない。傍に居ることは許されないかもしれないのです、尽くせるだけの人事は尽くしておかなくては」
 そう言ってラクスは静かに移動し、キラの隣に屈んだ。その手をキラの手に重ねる。
「そういうことですから、キラ。アスランの方が近くにいるからといって、やきもちなど焼かないで下さいね?」
 実は図星でしょう? とでも言いたげなラクスの瞳が悪戯に笑う。否定できないキラは失笑するしかなかった。そうして重ねられた体温に平静を取り戻してゆく。いつの間にか膝に乗せられたラクスの頬が静かに呟く。
 ――カガリさんはもっと、報われていいと思うのです。
 ――そうだね
 呟きは闇に溶けた。だが、その言葉は深く、深く胸に沈んで澱を成す。遠く南国を想って、切なさに硬く手を握った。