36

 黄みがかる空に青が差す。
 ああ、夜が来る。
 そう思って時計を見た。約束の時間にはまだ早い。
 四季の無い国。天候さえ狂わない。完全に調整された大気はまるで栽培ハウスのようだ。
 確かに。宇宙にとって私たちは異質なんだ。特別な環境でしか生きられないくせに、ごちゃごちゃといろんなものを作って、勝手に争って、殺し合って、滑稽な生き物なんだろう。こんな自分たちを籠に入れるような真似までして。宛ら観賞用に飼われている小動物だな。……宇宙に飼われている。ああ、それ、面白いかも。唐突にそう思って少し笑う。
「ミリィ!」
 軽く弾んだ声が自分を呼ぶ。大きく手を振る青年が見えた。
「サイ! なんだ、早いじゃない」
「なんだか落ち着かなくてさ。切り上げてきたんだ」
 その距離さえもどかしいというように小走りで近づく。眼鏡の奥で笑う瞳はあの頃と変わらない優しい色をしていた。
「久し振り。綺麗になったね、ミリィ」
 眩しそうに目を細めてサイは微笑む。残照が青に侵食されていく。
「やめてよ。お世辞なんて、らしくないわよ」
 照れてぎこちなく笑った。
「なんか、オヤジくさいし」
 そう言って悪戯っぽく笑ってみせると、サイは一瞬顔を歪めて、悪かったな、と呟いて、笑う。
「元気そうでよかった」
「そっちこそ。研究室に篭ってげっそりやつれてるかと思ってたのに、意外だわ」
「何だよ、それ」
 不服そうに口を尖らせてサイは、ふっと笑った。ミリアリアもくすくす笑う。ゆっくりと歩き出しながら、灯りの点り始めた街を眺める。一緒に学んでいた頃のあの場所ではないが、何か懐かしい感じがした。
「急に連絡してきたから吃驚したよ。ミリィはずっと地球にいたの?」
 あれから何年が過ぎたのか、考えるのももどかしい。それだけいろいろな事があったし、有り得ないような経験をした。
「ずっと……じゃないわね。行ったり来たりしてた。地球に居た時間のほうが長いけど」
「そうだよな。家もあるし」
「向こうのほうが情勢が不安定なところが多いから、仕事があるのよね」
 溜息混じりに呟いたミリアリアにサイは苦笑する。
「仕事、ね。……あんまり危ないところ行くなよ? 女の子なんだしさ」
「何よそれ。生きていくのに女とか男とか、関係ないでしょ? 親みたいなこと言わないで」
 サイの何気ない言葉にミリアリアは噛み付いた。彼女の仕事が両親には快く思われていない様子が窺える。サイは更に苦く笑った。

 そこ、と指差された扉を潜る。夕刻の飲食店の店内は、客も疎らでまだ落ち着いていた。案内された奥の席に落ち着く。
「……心配してくれなくても大丈夫よ。私、運だけは良いんだから。それに、そういう報道写真ばっかり撮ってるわけじゃないのよ。ほら」
 ミリアリアは肩に提げた鞄から小さなクリアファイルを取り出す。差し出されたそれにはスナップが入れられていて、真っ直ぐ正面を見る少年の横顔が写っていた。サイは訝しげに首を傾げる。
「何? ポスターとかの写真?」
「んー。そうね、たまに広報の方でも使ってもらってるかな」
「広報?」
 相当意外だったのだろう、勢いよく顔を上げてミリアリアを見返すサイにぷっと吹き出す。一つ捲ってサイに指し示すそこには、遠い友の微笑が写る。
「うん。カガリのとこの」
「あぁ」
「毎年、アエカ君の誕生日には呼んでくれてね。家族写真撮ってあげてるの」
「へぇ! すごいじゃない」
 繰る度に現れる日常の一こまが酷く新鮮に見えた。
「……こうしてみると、普通の女の子だな。首席代表も」
「そうね」
 静かに呟いたミリアリアの声が寂しげに響いた。
「いつも、無理して気張って、頑張ってるけど……ただの女の子なのよ」
 独り言のように呟いてクリアファイルを閉じる。
「一段落着いたら、こういう仕事に移っても良いかなと思ってるの。記念写真とか学校写真とか」
「そっか」
 酷く安堵したような笑みを浮かべてサイは言った。注文を取りに来た店員にサイがいくつか適当に注文をする。その平凡な日常に微笑み、クリアファイルを鞄にしまってミリアリアはサイを見据えた。
「サイは? 今、材料工学やってるんだっけ?」
「ああ」
「勉強熱心よね。学校に戻るなんて」
「……何したら良いか分からなかっただけさ」
 ふ、と溜息を吐いてサイは視線を落とす。自然に笑みが消えた。
「あの頃は本当、楽しかった。試験だの実験だの忙しかったけどさ、みんなでじゃれたり笑ったりしてたじゃない。それが、あんな風に……」
 言葉に詰まるほどいろいろな事があった。それは望んでいなかった分、鮮烈に刻み込まれた記憶だ。前線の劫火、轟音と破壊、断末魔と恐怖、大切な人を失う痛み。街はその傷痕をもう残してはいないが、心は未だ忘れることが出来そうになかった。
「だから、とりあえず学校に戻ろうと思って。学校もなくなってたけどさ。中途半端になってたところ、もう一回ちゃんと学んでおこうと思ったんだ。機械やってたら、これは材料工学もやったほうが面白いって感じちゃってさ。……何年学校通ってんだよ、て感じなんだけど」
 そういうと自ら失笑する。
「材料やっておいたら……設計も出来そうだもんね」
 ミリアリアは笑った。
「うん。こっちもいろいろ制度が変わって、ナチュラルでも条件を満たせば勉強させてもらえるようになったからさ」
「条件?」
「主に学力、かな。ついていけるレベルだったら入学させてもらえる。その代わり、途中でついていけなくなったら容赦なく退学だけどね」
「うわっ、厳しい」
「でも、チャンスだよ。何だかんだ言ってもこっちの方が研究進んでるしさ。そういうの学べるって凄いチャンスだと思うんだ。大変なこともあるけど、充実してるよ」
 満足そうに笑うサイに、ミリアリアも笑みを返す。
「コーディネイターって言っても、俺等と同じ人間なんだよな。なんであんなに差別して嫌ってたんだろう。……俺、あの時酷いこと言っちゃったよな、キラにもラクス・クラインにも」
「え? 何、あの時って」
 ミリアリアが不思議そうに問うと、サイは懐かしそうにして言った。
「俺さ、アークエンジェルで彼女が歌ってるの聞いて、綺麗な歌声だって思ったんだ。だけど、それもコーディネイターだから、遺伝子をいじってるからなのかな、って言っちゃったんだよ、キラに。そうじゃないよな。彼女は歌が上手いんだ。それだけのことなんだよな」
「……ほんと、酷いこと言ったのね」
 うん、と頷いてサイは済まなそうに俯く。でも、とミリアリアはサイを見据えた。
「ラクスがいろいろ変えてくれたから、そう思えるようになったのかもね。そうじゃなかったら、私たち、ここに上がってくることも出来なかったかもしれない」
 そうだな、と曖昧に笑った。サイはそれから生活や学業の他愛も無い話をして、ミリアリアは古い級友や仕事の話をして、感心したり笑いあったり、久し振りの再会を楽しんだ。
「ねえ、ミリィはいつまでこっちにいるの?」
「しばらくこっちにいるわ」
 ミリアリアはさらりと言って頬杖を突いた。
「え、仕事は?」
 サイが驚いて声を上げると、ミリアリアはくすくす笑った。
「地球じゃなきゃ仕事できないわけじゃないわよ。こっちの様子、見たいし。ほら、軍関係がすごいことになったじゃない? 新組織は立ち上がるし、ザフトは正規軍になっちゃうし」
「ああ……」
「でも、一番はあれよ、国防委員長。ここであの人が出てくるなんてね……」
「そうだね」
 答えてサイは眉を顰める。それは学校でも話題に上った、否定的な見解を以って。その名の響きが想起させる忌まわしい記憶が、彼等の感情を支配している。そう感じられた。
「地球は大騒ぎよ。またとんでもない戦争が始まるんじゃないか、って」
「こっちも似たようなもんだよ。……軍っていったって、人員的には相当減ったし、規模は縮小傾向なのにさ。またいきなり仕掛けたりしたら、どうするんだ、って。やっと復興したのにまた滅茶苦茶になるのか、って本気で言うんだ。こっちの人間はなまじアスラン・ザラを知ってるから半端じゃないよ。あいつ、エースだったもんな」
「でも、彼の何を知ってるの? 彼、お父さんの遺志を継ぐ、とか言ったの?なんか、既存の知識に頼って判断してるのって怖いわよね」
 ミリアリアが首を傾げながら言うと、まぁね、とサイは渋い顔で呟いた。
「なんでわざわざアスラン・ザラを就けたんだろうな。議長だって分かってるだろうに」
 低く零すサイにミリアリアも声を潜める。
「分かってるから、かもよ? 私達はアークエンジェルを降りてからの彼を知らないじゃない? しかも、これだけは議長が独断を押し通したらしいし。何か、あるんじゃないかしら」
 サイは息を呑んでミリアリアを見据えた。物事には多面性があることを思い出す。
「その辺も含めて、プラントって国がどう動いていくのか、ちょっと見たいのよね」
 ふ、と息をついたミリアリアは、徐に伸びをした。
「あ~あ。アークエンジェル、降りなきゃよかったかなぁ! まさか、こんな超国家機関が出来ると思わなかったのよねぇ」
 本当にがっかりした様子のミリアリアにサイは苦笑する。懐かしいような、もう別世界のように遠いようなアークエンジェルの存在。
「戻れば良いじゃないか」
「それじゃただの馬鹿よ」
 見合わせて、ぷっと笑う。変わっていく時代の中で、時が過ぎても変わらず笑いあえる友。面倒な時代に生まれてしまったと悲観していた自分に、友はこれは歴史的な変化なのだと言って目を輝かせた。
 そうやって自分の世界は柔軟に拡げられていく。こんな世界も悪くは無いかもしれない、とサイは穏やかに笑った。