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「少し、よろしいですか?」
 軽やかな声が響く。よく通る明るい声は執務室には似つかわしくない。僅かな苛立ちを覚えて顔を上げた。
「何でしょうか、議長。目を通しておきたい資料があるので、手短に願いたいのですが」
 まぁ! と目を丸く見開いてから、ふふ、と笑ったラクスのその様に、目を眇めて不快感を露わにする。
「存じてはいましたけれど……アスランは本当に真面目ですのね」
 アスランはラクスを一瞬見据えて溜息を吐く。それを合図のように目を下ろし、手元の書類に書き込みをしながら言った。
「からかいに来たのですか? なら、お相手をする余裕はありませんが」
つかつかと歩み寄る足音は間近まで来て止まった。止まった音の元に思わず目を遣る。細い爪先がこちらを向いていた。
「そういうわけではありませんわ」
 溜息の代わりに目を伏せて椅子を引く。再度ラクスに向けられたアスランの瞳には温度が無かった。
「今日はご相談に上がったのです」
「相談?」
 あからさまに訝しむ表情にラクスは苦笑した。その表情をじっと見据えて思う。この顔が再び心から笑うのはいつになるのだろうか。
「既に心を決めておられるくせに。相談とはおかしなことを言う」
 持っていたペンを無造作に机上に置いて立ち上がる。見上げていた瞳を見下ろしてアスランは無表情に言った。
「……いいでしょう。伺いましょうか、ご相談とやらを」
 ラクスの横をすり抜けて、一角に据えてある応接用の長椅子へ足を向ける。ラクスはその殺伐とした背中に呟いた。
「難しいお顔で難しい言葉を使うのですね。あんなに柔らかく笑う方でしたのに」
 やや悲しげな瞳を向けるラクスを一瞥して、アスランは忌々しげに顔を背ける。
「いつの話をしているのです。議長に於かれては少し冗談が過ぎるのではありませんか」
 ゆっくり腰をかけたラクスの前にカップが差し出される。濃い褐色の液体から緩やかに上る湯気の向こうに不機嫌な顔が見えた。
「まぁ、ありがとうございます。アスランのお部屋でお茶がいただけるなんて意外ですわ」
 にこやかに笑ってラクスが茶化すと顔色も変えず仮面のような顔でアスランは言った。
「これくらいは自分でやりますよ。秘書官も職務に奔走しているのですから」
「お優しいのですね」
 カップを包むように手を添えて褐色を揺らす。ふわりと上る芳香にラクスは目を細めた。
 そうしてアスランは褐色に目を落としているラクスを睨む。そういう事ではない、その特質は今の自分には必要ないものだ、と思考しながら胸の内に隠す。それを言うのは無駄な事、この人のペースに乗って時間を割くのは有益ではない。  対面に座って一つ溜息を吐き、アスランは至極平坦な声で問う。
「それで? どのようなご相談ですか」
 ラクスの視線がゆっくりと戻ってくるのを、アスランは凍るような瞳で見据えた。戻ってきたラクスの視線は勁い光を孕んでいて、やはり決定事項を告げに来ただけなのだと冷めた気分で見守る。
「軍備を、現状維持に止めようと思うのです」
「は?」
 思わず声を上げる。
「何を仰っているのですか、議長。それがどういうことか、分かっているのですか?!」
「分かっているつもりです」
 笑みを引いたラクスは芯のある声で返答した。その声色に息を呑む。外見からは想像もつかない気の強さは昔からだが、これが本当に分かっていての行動だとしたら厄介だ、と思った。
「では、敢えて申し上げます」
 溜息にも似た発声で言うとアスランは息を吸った。正面からラクスを見据える。
「先の二度の大戦で私達は多くのものを失いました。ザフトも例外ではありません。殊に人的資源における損害は甚大で、それを補うために設備も機構も一新して、全て整ったのはつい先頃ではないですか。それに、ガーディアンエンジェル発足にあたり、エターナル以下艦隊を派遣して大きく力を割かれたのは議長もご存知でしょう。それをこのまま、現状維持のまま国を守れと仰るのですか。いくらなんでも無茶です」
 自然、語調がきつくなる。ラクスが心に決めていても、到底認めるわけにはいかない案件だ。薄く溜息を吐いて俯いたラクスに畳み掛けるように言う。
「この国にどれだけのコロニーがあると思っておられるのですか。エターナルが無い今、有事の際にどのように対応されるおつもりです。あれがあったとしても、有事に駆けつけるなどはったりに近い。ですが、あの高速艦が圧倒的戦力を運ぶという事実が、安心材料になっていたのです。しかも、貴女の意志を帯びる、貴女の標を持つ艦だ。あの艦の象徴は議長、貴女なのですよ。それが国から離れてしまって、後継も無く、補充も無いとなれば、対外的には勿論、国内においても治安の維持に支障が出る可能性があります。それはお考えになったのですか」
「そうですわね」
 ふと視線を上げてラクスは呟くように言った。瞳の光は消えていない、寧ろ冷静さを纏って一層勁かった。
「混乱は避けられないでしょう。けれども、私達は変わっていかなければならないのです。変革に混乱は付き物でしょう?」
「ですが……程度というものが」
「これは好機です。ガーディアンエンジェルにその国力に応じて軍事力を提供して頂くことで、各国共、力は削がれています。ここで私達が補充に動けば、補充と言いつつ増強に走る国が出てくるでしょう。そうなれば、国防と称して力に頼る世界がまた出来上がってしまいます。それでは歴史を繰り返すだけ。そんなことは、もう二度と繰り返してはならないのではありませんか?」
 それは昔、自分が口にした言葉、力を以ってして何も止められなかった、流された苦い思いが甦る。淡々と語ったラクスの瞳には決意が宿っていた。真っ直ぐに揺らがず注がれる視線にアスランは拳を握り込む。
「力を手にして為し得なかったのなら、力を持たないでみるのも一つの手だと。私はそう思うのです」
「力を、持たない?」
「はい。そもそも地球の人々が軍備を増強しようとするのは、宇宙から齎されるものが恐ろしいから。コーディネイターは彼等の地位や職、生活の基盤を奪い、宇宙に上がって地球を破滅させるほどの兵器を作り、あろうことかコロニーを落とすことさえしたのです。彼等はその事実の恐ろしさを覚えていて、対抗する力を欲している。ならば、私達が過剰な力を持たないでいることを試してみても良いと思うのです。そしてあなたがそれを行うことに、大きな意味があるのですわ、ザラ委員長」
 注がれ続ける視線から逃げるように目を伏せた。慣れた苦味が胸の内に染みる。
「圧倒的な力で地球を、ナチュラルを滅ぼそうとした人間の息子が、力で鎧わず、暗に否定して歩み寄りを示せと、そういうことですか」
 返答は無い。目を上げると微笑が見える。
「……気に入りませんか?」
「当然です!」
 その思考も反応も予想通りだったのだろう、ちらりとも揺らがない微笑みには余裕さえ見える。そんなラクスの様にアスランは苛立ちを隠せない。噛み締めた奥歯がぎりと鳴る。
「我々の任務は危機管理です。常に最悪の事態を考慮すべきでしょう。それを、……力を持たずにどうしろと言うのですか!」
「その時は、私がエターナルを呼び戻しましょう」
「何を」
「そのためのガーディアンエンジェルなのですから」
 確かに機構としてはその通りだ。世界的治安維持のための組織、つまりは武力介入によって国や地域のテロ、紛争を鎮圧し、行政を守る組織なのだから。だがそれは、均衡の取れた仕方で、上手く機能するならば、の話だ。それを期待していい保証は何処にも無い。
「強すぎる力はまた争いを呼ぶのではないのですか? 最悪の事態への対処なんて、言い出したら限がありません。どんなに力を持っていても、万全を尽くそうとすればするほど、足りないと感じるのではないでしょうか」
「それは……ですが!」
「貴方の地位に対する人々の評価をご存知ですか? まだ何もしていないのに、貴方の名前にはそれだけの影響力があるのです。今ここで対応を誤れば、私達が恒久平和を手に入れることは難しくなるでしょう」
 握り込んだ掌に爪の跡が刻まれる。脅迫に近い言葉は精神を蝕む。どう足掻いても未だ付き纏う父の呪縛。何を言われているか位知っている。――またとんでもない破壊兵器を作るかもしれない。ナチュラルを排除しにかかるかもしれない。―― 自分が何をしてきたかなど、誰も考えない。見ていたくせに、それを認識しはしない。確かに、ここで通例のように補充すれば、待ってましたとばかりに有る事無い事騒ぎ立てるのだろう。そうして混乱が作られる。
 だから、望まなかったのに。
 手っ取り早く平和を望むなら、自分などいないほうがいいのだ。その組織力で新たな世界を構築し、圧倒的影響力で平和を謳えば済むこと。何度も感じてきた投遣りな気持ちを、アスランは再度噛み締める。どうしてその世界に自分が含まれているのか。所詮、逃げ出した厄介者なのに、居場所があるなど馬鹿げている。
 こんなことは、望まなかったのに。
 じっと見返して訴えれば、その微笑みに一蹴される。そうか、これは断罪なのだ。
「――では、せめて……国内の治安維持を独立の部隊か組織に専任させることを提案します」
「……分かりました」
 一つ頷いてラクスはふわりと笑う。
「良かったですわ。やはり、アスランは良い知恵をお持ちでした」
 そう言って静かに立ち上がったラクスを思わず目で追う。見開かれていたアスランの瞳は一瞬後に疎ましげに眇められた。
 答えは、用意していたくせに―― 
「お話し出来て嬉しかったですわ。またお話しいたしましょうね?アスラン」
 俯いたアスランに立ち上がる気力など既に無い。それを意に介さずラクスは静かに背を向ける。囁くような歌声が耳に届く。
 ――いつから 微笑みは こんなに儚くて
 期せずして震えた体を押さえ込むように両の手を握り合わせる。
 ――一つの間違いで 壊れてしまうから
 微かな足音が遠ざかる。
 ――大切なものだけを 光にかえて 遠い宇宙 越えて行く強さで
 軽やかな歌声はその実、致命的な破壊力で思考を侵食した。
 全てを払拭するように、アスランは目の前の卓を力任せに払う。酷い音を立ててカップは砕けた。残響は苛立ちを宥めるように居座って暫し空気を占拠した。