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 その外縁はせり上がり、丘陵地のようになっている。巨大な円を描くそれは所々施設を擁し、或いは背の低い草に覆われた標の並ぶ公園であったり、灌木の生い茂る林であったりした。
 彼女は時々、その公園にやって来る。夕刻にもなれば人影も無く、思索に耽るにはもってこいだった。取材した事案を纏めて草稿を練ったり、ただ座って、その緩やかに下る坂道を眺め、辛かった一日をやり過ごすこともある。どちらかというと今日は後者だ。
 最奥は開けていて、広場になっている。公園というだけあってベンチが並べられており、日の高い間は小さな子供を遊ばせる母親や放課後の学童が楽しそうな声を響かせる、そんな場所だ。
 俯いたままそのベンチに向かう、その程度には慣れた道だった。だから俯いたままベンチが視界に入ってくるまで、先客が居るのに気付かなかった。
「……ア、アスラン・ザラ ?」
 声をかけると、伏した顔を傾けて目線だけを向ける。そしてゆっくりと顔を上げた。そのまま驚いたようにじっと見据える。
「やだ、忘れちゃった?ミリアリアよ」
 半分戯けて笑った。以前のように戦友、というか知り合いとして対等に接してはくれないかもしれない……気易い態度は賭けだった。
「ミリアリア・ハウ、だな。忘れてない」
 アスランは視線を逸らして、ふと笑った。
「良かった! 久しぶりだし、あなたも偉くなっちゃったから、忘れた、て言われるかと思った」
 安堵して軽い溜息を落とし、ベンチの左端に腰掛ける。
「君には妙な場所で会うな」
「そうね」
 落ち着いた声音は年を重ねた所為か。誰が聞くでもない言葉は、密かと言える程に静かに発せられた。
「今度は墓地、か」
「公園でしょ?」
 ミリアリアはくすりと笑う。
 実際、墓標はあってもその人の何かが埋まっている標は少ない。それは存在を示すものではなく、存在の記憶を証すものだ。
「此処にはよく来るのか?」
「たまに、ね。あなたこそ、何? こんな所で暇してていいの? 過密スケジュールと聞き及んでますけど?」
「……休憩くらいするさ、俺だって」
 以前のように余裕の無い硬さは感じられない。穏やかに笑うような声にミリアリアは眦を下げる。
「とりあえず、元気そうで良かったわ」
「ああ。君も」
 年月を経て落ち着いた分だけ、穏やかに懐かしむような口調になった。自然、平穏でなかった時分が思い起こされる。
「ここに来るとね」
 等間隔に並べられた標の群れを眺めながら、記憶に絡む思いを紡ぐ。
「思い出すのよ、トールのこと。何処に行っちゃったのか……骨だってないまま……」
 込み上げる思いは胸を塞ぐ。言葉にならない思いが沈黙を呼んだ。
「……すまない。俺が」
「やぁね、責めるために言ったんじゃないわよ。みんな誰かしら亡くしてる。親や兄弟や友達……あなただってそうでしょ? 戦争してたんだもの、仕方ないのよ」
 溜息混じりに言って目を伏せた。今は心からそう思える。やっと、自然にそう思えるようになった。
「あの人は綺麗な思い出になったけど、まだやりたい事や行きたい所がたくさんあっただろうな、て思うのよ。ずっと、取られた、置いていかれた、て思ってたけど、違うのよね。あの人は私達を護るために行ったんだわ。……ここにもきっとそういう人が、たくさん、眠ってる」
 夕刻も夜に近づく演出が空気を冷やす。弱い風が通り抜けた。
「生きていたら、戦争が無かったら、て思うと切ない。違う社会が、平穏な未来があったのかもしれない。そう思うと遣る瀬無いけど……だから、無駄にしたくない。その人達の上に今の社会は成り立っていて、私達は生きていられるんだから。
 もう二度と、あんな戦争を起こしてはいけない。起こらない世界を築かなきゃ。……私には事実を記録して記憶に残していくくらいしか出来ないけど」
 明るく笑って振り返る。隣の横顔は正面の標を見据えて僅かに頷いた。そして遠く、哀しい瞳が宙を仰ぐ。
「凄いな、君は」
「何よ、それ」
 振り向かない横顔にミリアリアは失笑した。それを意に介さずに、アスランは宙に呟く。
「無駄にしたくない、か。そんな風に考えた事は無かったな。
 俺は、罪を悔いるだけだ。ただ命令に従って並ぶ墓標を増やしてきたんだろう、気付けなかったそれを悔いて……多分、それに対する報いが欲しくて、自分を罰する為にここに来るんだ。お前は人殺しだ、その手は血塗れなんだ、と呪う為に」
 狭い空に向けられた視線は硝子の壁を通り抜けて暗い真空を駆けているようだ。戦火の記憶を辿っているのか、その貌は苦く歪む。
「死んでるみたい」
 ミリアリアはぽつりと呟いて、下り坂の向こうに街を眺めた。
 宙を彷徨った視線が街に下りて止まる。アスランは無言で身動ぎせずに街を見据えて、しかし何も見えてはいない、息を潜めてその意味を、先の言葉を探っているのだ。意識が此方に向けられているのをミリアリアは感じ取る。
「罪を認識するのは大事なことだと思うけど……悔いてお終い? それじゃ、そこから進めないじゃない。死んでるのと同じだわ。報い、て言うけど、それって逃げよね。
 この上、自分も殺してどうするの? ……確かに報いかもしれない。だけど、そんな事、誰も望んでないわ」
 街に向けられた視線は僅かに下がって停滞した。その様子にミリアリアは大仰に溜息を吐いて肩を落とす。
「なぁんだ、がっかり。ちゃんと世界のこと、考えてくれてるんだと思ってた」
「な、に……?」
「あんな戦争の中にいたんだもの、それがどんなに悲惨で間違ってるか知ってるでしょ? あなただって、こんな戦争、二度としたらいけない、って言ってなかった? だから、復隊してみたりオーブの軍服を着てみたりしたんでしょ? 」
 振り向いたアスランにミリアリアは真っ直ぐ問い掛けた。
「もしかして、ザラ派を整理して終わったと思ってる? 軍を縮小したから、もっと広く、先を見てるんだと思ったけど……そう。進んでそうした訳じゃないのね。
 自ら変わることで世界を変えたい。ラクスのその願いは半分あなたに託されたのよ、気付かなかった?」
 ミリアリアの言葉にアスランは息を呑む。それは発言に対する驚きか、それとも、図星か。
「私ね、あなたがどんな世界を作るのか見たくてプラントに来たの。結構、期待してたんだけどな……」
 ゆっくりと視線を外す。薄い闇が侵食を始めた街並を見下ろしてミリアリアは寂しげに首を傾けた。
「そんな事の為に、此処に居るのか……」
 アスランの視線もまた、坂道を辿って街へ下りる。ちらりと視線を寄せて視界の端に青を捉えると、忌み嫌うように逸らしてミリアリアは眉根を寄せた。
「そんな事? 大問題よ!私達ナチュラルはあなたのお父さんに滅ぼされそうになったのよ? ユニウスセブンの事だって……忘れたわけじゃないわ。だから地球はあなたを怖れてる。
 だけど私は、それを止めようとしてくれた、被害を抑えようと行動したあなたを知ってるから、大丈夫って思いたかった。本当のところを知りたかったし、伝えたいって」
「伝える?」
「そう。そういう仕事だから」
 仕事、て、と言いながら振り向くアスランと目が合ったのは小さなカメラのレンズだった。かちりと本当に僅かな音がする。
「はい、頂きました!」
「おい!」
「再会記念。私、友達売るほど必死じゃないのよね」
 くすりと笑ってそう言うとミリアリアは肩を竦め、上着のポケットにカメラを仕舞った。
「なぁんて、他の誰かにツーショット撮られてたりして」
「それは無い。確認済みだ。君の他に近づいて来た者は居ない」
 アスランは左の掌を返して手の中の端末を示す。さらりと返されてミリアリアは拍子抜けした。大体、ベンチの右端と左端に離れていてツーショットも何もないか、と苦笑する。
「さすが、委員長」
 その単語にアスランは眉根を寄せた。そう呼ばれるのが本意でない様子を曝す仕草が意外にみえて、少なくともミリアリアはそう感じて口篭る。
「……まだやってるんだな、その……ジャーナリスト」
「まあね。そろそろ他を考えないでもないけど」
 首を廻らせて坂道を見据えた。
「あなたがパトリック・ザラの思想を排除して、ラクスがナチュラルを受け入れる政策を立てて融和を目指すと宣言して、カガリがコーディネイターを代表に立てて、キラが紛争を監視して。世界は戦いを回避する方法を模索して動いてる。
 ……戦争は終わった、もう戦わないでいられる世界を見てる、て報告してもいいかな、て思ってる。だから」
 そして、ふと息を吐いてミリアリアは立ち上がる。釣られるように視線を上げたアスランは僅かに動揺した風だった。
「もう少し此処で、プラントって国がどう動くのか見届けて、終わりにするわ。いい加減、トールも解放してあげないと、ね」
 影は長く、ベンチへ蟠った。
「解放、て、彼は」
「うん。でも忘れるの、辛くて。負い目にも感じてたのね、きっと。だから我武者羅に戦争の痕を追い掛けて……縛られてるんじゃなくて縛ってる。これじゃトールも浮かばれないよね」
 光量の落ちた空気は寂し気な笑顔に濃い陰を添えた。それを振り払うように軽く首を振る。
「もう行くわね。ちょっとしゃべり過ぎちゃった、ごめんなさい」
「いや……」
 振り返って見たその髪は橙に侵食されて黄味がかっていた。苦く思いに耽るような眼差しで、しかし意外にも柔らかい表情のアスランを不思議な気持ちで眺める。そうしてミリアリアは笑った。
「じゃあ。頑張ってね、期待してるから」
 返答に困ったのか、くぐもって曖昧な音になった声が聞こえた。取り立てて返事を求めていた訳ではない。軽く手を振って背を向ける。眼下に広がる街は活動しながら沈黙を守って、まるでこちらの様子を窺っているようだ。一歩踏み出しながら、動向を見守っているのは自分だけではないのだ、と今一度思う。
 頼むわよ、省みる時ではない、行動する時なんだから、と祈るように背後に念じてミリアリアは公園を後にした。