6

 その日、海からの風は逆巻くように強く吹いていた。
美しく成形された石の塊を正面に、何をするともなく彼女は佇んでいた。風に翻弄される髪だけが生気を孕んで舞うように散る。ずっとその石の塊を見据えて、そこに意図して置かれたオブジェにでもなってしまいそうな勢いだった。
「やっぱりここに居たんだね」
 柔らかい声を間近に聞いて、彼女は軽く身動ぎして振り返る。その眼が少し赤かった。顰められた眉が薄く嫌悪を含んでいる。曖昧な返事が返ってきた。
「独りでこんなとこ、来ていいの?」
 更に顰められた眉にあからさまな嫌悪が浮かぶ。
「お前のところに行く時くらい、独りで出掛けたっていいだろ」
「真直ぐ来るならね」
 一瞬睨み合う。薄い笑みの下の覇気に気圧されて彼女は目を逸らした。
「大体遅いよ? どれだけ遅刻したと思ってるの? 心配するじゃない」
 彼が帰郷するのを機に会う約束をしていた。忘れたわけではないのは判っている。言葉に窮する彼女に軽く溜息を落とした時、小さくごめん、と呟くのが聞こえた。
「……前に同じことを言われたことがある。……あいつのことは……好きじゃなかったな……」
 そう、と相槌を打つと彼女は石の向こうの海に目を移した。遥か遠くに何かを見据えるように。
「もしかして、ウズミさんに報告?」
「……うん。 相談、て言ったほうがいいかな」
 ちらりと振り向いて笑う。その肩が僅かに震えた気がした。
「お父様なら、何と言うだろうか…… て」
 風に煽られた波が白く割れる。その荒々しさは譴責にも似ていた。それは当然のこととして、彼女が知りたいのはその先のことであろうことは明らかだ。
「それはカガリが一番よく知ってるんじゃない? ……それでいいと思うよ」
 風が唸って通り過ぎる。納得のいかない様子でカガリは俯いた。
「……そうかな」
「……迷ってるの?」
「迷ってはいない。決めてたんだ、こうする、て。でも……どう受け止めていいか分からないんだ……」
 その石の前で何度も巡ったであろう逡巡を繰り返す。キラは先を促すようにカガリの顔を覗き込んだ。
「決めた以上は大事にすべきなんだろう。けど、どこかで駄目になることを願っている自分がいるんだ……覚悟はしてたけど、望んだ訳ではないから。時々、夢なんじゃないかって思う。実感は、無いし。でも、そう思うと全てが嘘だったみたいで寂しい。……それでいいのかもしれないけど」
「……怖いんだね」
「…………ああ。そうだな、きっと」
 驚いて見開いた目をキラに向けた後、カガリは目を伏せて呟いた。自嘲の笑みが零れている。
「いろんなことが怖い。無かったことにしてしまえたら、それが一番楽なんだろう。だから動いて逃げている。……でも、それも怖いんだ……」
 固く握られた拳が小刻みに震えていた。カガリは、不覚だとばかりに渋面を作り、寒さを紛らわすかのように右手を左手に被せて握り込む。ん、と同意してキラは尋ねた。
「それで、ウズミさんはなんて?」
 海は依然、白波を岸に打ち付けている。混ぜ返されて暗く濁る色の海から言葉を引き出そうとするかのように、カガリの視線は海を見据えて動かない。
「……分からない。お父様が遺してくれた最後の言葉は、“幸せに生きよ”と。今はそれが耳について離れない。……」
 続く言葉を見つけられなかった。だから、では、どうすればいいのかをカガリは答えられなかったし、どうするのが正しいのかをキラは告げることが出来なかった。言葉を紡げない重い沈黙が波音に被る。 キラは、ふ、と溜息を吐いた。それが殊更哀しげに響いて、奈落に落ち込んでいきそうな気分になる。頭を振って自分を引き戻した。
「こんなことで悩んでる場合じゃ、無いんだが」
 小さく、それでも弱くはない声で言って、カガリは握り込んだ手に目を移す。そうだね、と相槌を打って、キラはカガリの手を取った。その冷たい感触に驚いて両の手で包み込む。
「天に任せるって言ったのは、カガリでしょ? ……もう行こう。こんなに冷えちゃって……風邪引くよ?」

 そっと引かれた手が僅かに強張る。不意に涙が滲んでカガリは慌てて瞼を閉じた。

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