目を伏せて尚青い光の靄に一筋の間隙を見る。 薄く目を開いてそれを確かめる。
黒く傷口のように開いたそれは引き裂かれて広がり、縦に大きく青を侵食した。その黒に目を見開くと、青が霧散する。
「おかしいな、印は剥がれてたと思うんだけど」
冷えた瞳でにやりと笑うと、キラは傷が開いた方へ目を遣る。
アスランが無表情で立っていた。見下ろす瞳は氷のように冷たく胡乱だった。

lacrimoso  / 10ー1

「お嬢様は印が剥がれる前に私をお呼びになりましたから」
平坦な口調で答えながらカガリを抱き上げ、素早く距離をとった。
「全く、世話が焼ける。なんですか、この様は」
手の印を移すように胸の光に翳すと、以前の形に戻って貼り付く。
ふ、と溜息を吐いてカガリを下ろし、キラに目を向ける。
「こんな朝早くから、お嬢様にどんなご用件ですか。あぁ、朝露に濡れて……風邪でも召されたらどうしてくれるのです、お嬢様は未だ人なのですよ?」
「うん、だから悪魔にしてあげようと思って」
「は?」
頓狂な声を上げてアスランはキラを睨み据えた。
「どういうつもりだ」
「だって、そうすれば死ぬとか気にしないであの組織に乗り込めるでしょ?ずっと一緒にいられるじゃない」
明るい声が弾む。
無邪気な笑顔は、一見裏の無い子供の感情に見えるが、僅かに翳の差す眦に邪な思いを垣間見た。それは蛇のように狡猾な光を放っていた。
「お嬢様はそれでよろしいのですか」
辛うじて立っているカガリの肩を抱いて支えながらアスランは形式的に問う。
「人の魂を喰らって生きるなんて、冗談じゃない」
忌々しげに言い放つ。分かりきっていることだ。
大体、悪魔は魂を代価に人に使役されるのだから、悪魔にしてやろう、などと持ち掛けることはない。何か、他に目的かメリットがあるのだ。カガリは溜息を吐き捨てた。
一層表情を険しくしてアスランはキラを睨み据える。
「お前……組織の者だな」
驚いてカガリはアスランを見上げる。アスランは苛烈な瞳をキラに向けていた。
「主宰はカガリに執着していた。見苦しい程貪欲で浅ましい……まさに人の形をした悪魔。まるでその主宰のようだ」
肩を竦めて溜息を吐き、くすりと笑ってキラは言った。
「鋭いねぇ。伊達に長生きしてないってことかな?悪魔に“悪魔”って言わせるなんて、この人相当悪い人だったんだね」
悪びれる風もなく笑った顔に眉根を寄せる。
「では」
「取り込んだ。……喰った、て言った方がいいのかな?」
そう言って更に笑う。その顔を苦々しい気持ちで見据えた。
どこかおかしい感じがしたのはその所為か、と思う。何か違う気がした、人であった頃の彼とは。人でなくなったのだから当然といえば当然だが、それにしては人格が残り過ぎている。疑いながら否定できなかったのはその所為だ。
「君が来てくれたらあの組織は完成するんだけどな。僕らの楽園が」
そうして手を伸ばす。踏み出した歩みに迷いは無い。
アスランはカガリを背に回し、前へ出た。一歩毎にこちらも一歩踏み出す。すぐに正面で向き合う形になった。
「残念ながらお嬢様はそれを望んでおられない。お引取り願おう」
キラはにっと口元を歪める。見開いた目はぎらりと光って、その表情は狂気に満ちていた。
「そういうわけにもいかないんだよねぇ、ここまで来てさ」
振り翳した手には鉤の爪。その爪に掛けて切り裂こうと空を掻く。
これは。どちらかが倒れなければ終わらない…… そう感じて、爪を避けながらアスランはどう応じるべきか考えた。
悪魔は人のようには死なない。元は天使なのだ、当たり前と言えば当たり前だ。 ここで始末できれば、それが最善だろう。この先、追い回されるのも面倒だ。ただ、方法を思いつかない以上、逃げ切って考えるのもありかもしれない。 爪が鼻先を掠める。
「君、今、どうやって僕を殺そうか考えたでしょ」
キラは狂気に満ちた笑顔で問うてくる。
「だったらどうなんだ」
その狂気を苦々しく見据えながらアスランは回避と思索を続けるが、勝算のある策は無い。
あるとすれば……
「僕も殺らなきゃダメかな。ていうか、無理だよねぇ?」
死神の鎌ならば、あるいは。
尚も笑いながら振り回される手は力を増して襲いかかる。露わにされた敵意は容赦なく迫った。
「逃げてるだけじゃ殺られちゃうよ?真面目にやってよね」
冷たい声が催促するように不満気に投げられる。
挑発だと解っていても気持ちは苛立った。逆毛を撫でられるような些細な、だが見過ごせない不快感が感覚を鈍らせる。
気付けば、間合が詰まっていた。一歩踏み込めばその爪が小さな主に掛かる。
僅かに焦って見返せば、カガリの前にステラが立っていた。