寒気に身を震わせて目覚める。
ゆっくりと覚醒して、額に、首筋にべったりと髪が貼り付くほどの汗を自覚する。
ーー夢を見ていた。
額の汗を拭おうとして朝日に気付く。薄目のまま、恨めしそうに窓を見上げた。
「おはようございます、カガリ様」
感情のない平坦な声が紅茶の香りを連れてやって来る。
「ああ」
「また、あの夢ですか?」
身を起こすと、胡乱な瞳で一瞬睨んで窓へ顔を向けてしまった。そんなカガリを見て、顔を伏せ、にやりと笑う。
「ああ、 」
アスランはカガリの前髪に手を伸ばした。
「こんなに濡れてしまっては、お湯を使って頂かなければなりませんね」
髪を指に絡ませ、額に触れて輪郭に沿うように頬を撫でる。その手を払い除け、カガリは忌々しそうに目を閉じた。

lacrimoso / 2

「済まないな、ステラ。朝からこんな仕事」
暖かな湯気が立ち込める浴室にはたっぷりの湯が用意されていた。
「……仕事があるのは嬉しいこと」
ぽつりと言う声の調子は僅かに微笑んでいた。平素から感情の薄い家女中は心からそう思っているらしい。
「すごい、汗。どうして」
髪を濯いで湯を流す。水滴を拭いながら呟いた。
「……何か、された 」
ふと思いついたように身体を検めようとするステラに、カガリは飛び退いて離れる。
「されてない!何も!! ていうか、誰にだよ?!
「ん アスラン?」
さも当然のように言って首を傾げたステラの澄んだ瞳に見据えられて言葉を失う。大きく溜息を吐いて脱力した。
「ステラ。ここは私の屋敷なんだ。そんなことは許さない」
「でも。ご主人様は女の子だから」
真っ直ぐな視線に息を呑む。
「……ああ、ステラはそういう所に居たんだったな……」
「……抵抗は無駄」
彼女の体には縛めの跡が今も残る。あの忌まわしい場所に囲われていた少女。
「夢だ。ーー悪い夢を見た」
「夢 」
「……私の隣で、弟が死んだ。私の胸には短剣が」
「だめ。顔が真っ青」
カガリの顔を覗き込んで押し止めるように肩を抱いた。ステラの手に力が篭る。じわりと脂汗が浮いた。
「 かわいそう」
カガリの額の汗を拭いながら、ステラの瞳は悲しそうに揺らぐ。境遇はさして変わらない、寧ろその境遇に置かれた期間の長さを考えれば、ステラのほうがずっと哀れなのに。
「大丈夫。夢は終わってる」
一粒、涙が零れた。

「これは」
ステラを従えて戻ってきたカガリを見て、アスランは目を細める。それは不機嫌そうに見えた。
「また随分と凛々しい」
黒の三つ揃いに灰青のタイをクロスノットで結んで、それはまるで青年のような出で立ちだった。その言葉には答えず、引かれた椅子に腰掛ける。机に置かれた紙片をめくった。
「そのようなものばかりお召しになって……先代がご覧になったら嘆かれるでしょうね」
ふん、と軽く鼻を鳴らす。
「居ない者を気遣う必要が何処にある」
言った瞬間、体が震えて手を握りこむ。震えを止めようと力を籠めるが、それは功を奏さなかった。
「みんな死んだ。残った者として護るべきものが私にはある。それを果たすにはこちらの方が都合がいい。先代だって分かってくださる」
言いながら握り締める拳は揺れて、膝は打ち合う。その死を目の当たりにした心は、未だその衝撃を超えられない。
「ですが」
「うるさい!」
見開かれ、怒りと恐怖と憎しみの凝った瞳が向けられる。その激しさは劫火の様。それは彼女が囚われていた場所を焼き尽くした炎に似ていた。その瞳を超然と見下ろしてアスランはカガリを冷ややかに見据える。
「意地ばかり張って……その形は穢れた記憶から自分を護るための鎧か」
びくりと震えて慄く炎を差し向けるカガリに、アスランは更に冷たく笑う。
「残された者の務めのためではなく、穢された記憶を封じるためだろう。子猫のように震えているくせに、笑わせる」
「……」
「何と弱い。あの日の少女のままなら少女らしい格好をすればいい」
がたん、と椅子を鳴らして立ち上がる。噛み締めた奥歯がぎりぎりと音を立てた。
カガリは黙っている。それは突き付けられた無情な言葉に、一理あると感じてしまったからだ。
強がっているだけでは駄目なのだ。越えて、あの時間に触れられる位、せめて震えずに平静を装える位に強くならなくては。
「でも。それでも私は、これを変える気はない」
一瞬だけ真っ直ぐアスランを見てカガリは扉に目を移した。いつもより早足でそこへ向かう。
「どちらへ」
「今日は定例会議だろ?」
ポケットから時計を取り出す。定刻まで、あと二時間。
「お早いお出掛けですね」
「遅れるよりは良いだろう。……早過ぎるようなら工場を覗かせてもらう」
「抜き打ちですか。趣味が悪いですね」
「新しい工場長の仕事振りも見たいしな。その位でちょうど良いだろう」
僅かに口角を上げてすり抜けるように部屋を出たカガリに失笑して、アスランは後を追った。