じんじんと痛む眉間を押さえてカガリは階段を下りる。昨夜は、微睡みはしたものの、結局眠ることは出来なかった。アスランの、あの悪魔の顔がどうしても瞼の裏から消えない。冷たい手の触れた乳房も刻印も、熱をもって騒ぐ。心臓は未だ掴まれたように緊張して痛み、呼吸を浅くさせていた。
空が白んだのを見て部屋を抜け出す。少しでも気を紛らせたくて、散策でもしようと考えた。
エントランスには先客がいた。階段を下りきって声をかける。
「随分早起きだな」
「カガリこそ、早起きじゃない」
柔らかな笑みを向けて悪魔は答える。弟の顔をしたそれは、幼い体躯で愛嬌を振り撒きながら、狡猾にその目的を達しようとしている。
その目的がどこにあるか、カガリは未だ探れずにいた。
「家も久しぶりだし、庭を見てこようと思うんだ。カガリも一緒に行く?」
守りたい、と言ったその言葉がそのまま目的ではないことくらいは分かる。自分達を殺した組織を潰すことなのか、それとも自分に触れたいという邪な欲望を満たすことなのか……
「ああ。ちょうど頭を冷やしてこようと思ってたところだ」
二人で扉をくぐり、外に出た。

lacrimoso  / 9

日の出前の庭園は青く沈黙している。眠るような静けさは靄の天蓋に包まれて、足を踏み入れられるのを拒んでいるようだ。湿った冷たい空気に首を竦めてカガリが躊躇っているのに構わず、キラは迷いのない歩みで進んでいく。まだ光の少ない世界の心細さにカガリは思わず後を追った。
見慣れたはずの景色が、異世界のように見える。色を失っただけで幻想を見せられているようだ。
「あんまり変えてないんだ、庭」
きょろきょろと見回しながらキラは僅かに笑った。
「残念ながら庭師は雇ってなくてな」
感情の乗らない声で答えてカガリはキラに並ぶ。会話も無いままゆっくり歩く。花はまだ蕾んで妖しげな空気を払う光を待っている。朝露は葉を湿らせて矢のような朝日の攻撃に備えさせる。
「この辺、懐かしいな。よくかくれんぼしたよね」
そう言うと屈んで植栽の間を覗く。まだ出来そう、と呟いてキラは笑った。
溜息混じりに笑ってカガリは歩を進め、キラを追い越して行く。
「あ、ちょっと!」
待ってよ!と呼びかけながら、ぱたぱたと追ってくる様は変わらない。本当に悪魔に変化してしまったのか、疑問に思う程無邪気だ。
庭園の奥には低い山があり、明るい林を擁している。木立は疎らに並んで並木道のようだった。その林を抜けて頂の大樹までが、彼等に許された行動範囲だった、まだ両親が生きていた頃は。
山頂の樹は枝を横に伸ばしてずんぐりとした姿を晒している。その影は広く木陰で遊ぶにはちょうど良かった。懐かしい気もするその影で、山の向こう側に広がる町を見下ろす。無邪気に思いを馳せた遠く夢想の町は、時の経過に少し形を変えて幻を見せられているような気分になる。佇んでぼんやりと町を見下ろすカガリの真後ろに立ってキラは囁いた。
「ねぇカガリ。契約、しない?」
「……何言ってるんだ」
振り向かずに拒否を吐き捨てる。そっと掬われた右手は、ずっと小さい頃からそうしていた懐かしさに、言葉とは裏腹に握り返す。
「僕なら君を悪魔にしてあげられる。そう簡単には死なないから、やりたいことがやりたいように出来る。ね?」
いいでしょ?と言わんばかりに首を傾げて笑う。酷く不愉快な気分で睨み付け、カガリは拒絶を突きつけた。
「そんなものになってまでやりたいことなんか無い」
振り解いた右手はすかさず掴まれた。振り返れば、薄く笑う冷酷な顔は悪魔そのもの。
「悪魔はね、目的のためならどんな手も使うんだよ」
そう囁いて、にぃ、と笑った。
「一緒に生きてよ。僕はカガリと一緒がいいんだ」
そう言うと手のひらに光を溜める。輪郭の曖昧なそれは青く広がり二人を包んでいく。もうどう抗おうとしても動けなかった。
「どうして、私なんだ?なんで一緒がいいんだ?」
それだけ尋ねた。呼吸さえ苦しい。
「だってずっと一緒だったじゃない。僕は君に殺されたけど、まだ死にたくなかったし、だから君には一緒にいて欲しいんだ」
訳が分からない。そう言おうとして口を開くが声は出なかった。もう抵抗は許されないらしい。
「こんなに大事にしてたのに。酷いよ、カガリ、僕をあっさり殺しちゃうなんて。……責任、とってよね」
なるほど、とカガリは思った。
死にきれなかった訳だ。その無念が怨嗟に変わった。そういうことなんだろう。
事実と認識がずれているのは、怨みがそれだけ強いということ。キラはきっと本気だ。
アスラン……!
胸の内に叫ぶ。悪魔になんかなりたくない。
ここだ!……ここに!!
「うわ!こんな所に付けちゃったの?女の子なのに」
契約の印がぼんやりと光り出す。その輪郭が光に変わり、浮き上がる。やがて混沌と円に融けた。
「じゃぁ、始めようか。僕がカガリの魂を貰うね。カガリは何でも望むことを願うといいよ」
言って、円に融けた印に手を翳す。カガリは目を閉じた。